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【公爵・三条実美】明治古写真◆写真師昔台紙鶏卵紙肖像美人物幕末風景色爵位皇族皇室園祥子明治天皇武士戦前戦後大正軍人公家
        

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三条 実美(さんじょう さねとみ、旧字体: 三條 實美、1837年3月13日〈天保8年2月7日〉- 1891年〈明治24年〉2月18日)は、日本の公卿、政治家。三条家31代。位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵。号は梨堂(りどう)。変名は梨木 誠斉(なしき せいさい、旧字体: 梨木 誠齊)。

幕末には尊王攘夷・討幕派の中心的な人物であり、明治維新後は元勲の一人として右大臣や太政大臣を歴任して明治政府の名目上の首班を勤め、内閣制度発足後は天皇を常侍輔弼する内大臣に転じ、それを本官としたまま短期間ながら内閣総理大臣を兼任したこともあった。また最晩年には帝国議会の開院に伴い公爵として自動的に終身任期の貴族院公爵議員にも名を連ねたが、内大臣の立場から議員活動に関わるようなことは一切しなかった。

生涯
生い立ち
旧暦天保8年2月(1837年)、公卿・三条実万の四男として誕生。幼名は福麿。実母は正室である山内紀子だったが、四男のために三条家庶流である花園公総の養子となる予定だった[1]。幼い頃から聡明で知られ、教育係の儒者・富田織部から高い尊皇意識の影響を受ける[2]。

安政元年2月(1854年)、三条家の嗣子であった次兄・三条公睦が早世。本来ならば、公睦の嫡子・公恭が継ぐものを、この甥の幼さと織部の強い推挙から、4月に福麿が嗣子となった[3]。8月には元服して実美と名乗り[4]、この読みは、通例では「美」を「よし / はる」と読んだが、父が忌んだために、儒者・池内大学の勧めから「さねとみ」となった[5]。尚、甥・公恭は実美の養子に迎えられる[5]。

父が攘夷達成のために「戊午の密勅」発出の立役者となると、幕府から迫害を受け、安政5年10月23日(1858年)、父は隠居・蟄居し、織部ら三条家の侍も多く逮捕される安政の大獄が発生[6]。この状況下で、実美が正式に三条家の家督を相続し、父は翌年10月に出家・謹慎へ追い込まれた末に死没する[7]。

尊攘派公家の代表
文久2年(1862年)、島津久光の上洛以降、5月10日には、久光の意見を取り入れつつ、関白・九条尚忠を退任させ、旧例にとらわれず関白を選ぶべきとする上書を提出[8]。翌日には、国事書記御用に任命され、朝廷の中枢に近付く[9]。実美を引き立てたのは、父に師事した中山忠能や親類筋の正親町三条実愛であった[9]。

実美は本来、公武合体論者であったが、一向に攘夷へと進まない幕府への不満が高まり[10]、平野国臣の『培覆論』を筆写するなど、尊攘派の志士との交流を深めていく[11]。7月から8月にかけては、公武合体派の内大臣・久我建通や岩倉具視を始めとする四奸二嬪を失脚に追いやった[12]。さらには、父の養女を娶っていた土佐藩の山内容堂に働きかけ、藩主・山内豊範とともに上洛させて中央政界へ土佐藩を進出させる[13]。しかし、この時期、朝廷の権力増大を図る実美ら朝廷改革派が勢力を伸長するものの、孝明天皇は、攘夷論者でありながら、幕府への大政委任論の立場に立ち、大きく異なる考えにあった[14]。

8月10日、長州藩と土佐藩による、攘夷督促の勅使を14代将軍・徳川家茂に派遣させる運動に応え[15]、実美は、再派遣の意見書を提出[16]。これは、6月に大原重徳が薩摩藩から派遣されたことから、薩摩藩の影響力を削ぐねらいで、再度、両藩が起こした運動であり[15]、10月には、副使の姉小路公知とともに実美が正使として江戸へ赴く[16]。実美と長州藩との関係はこの頃から密接となった[17]。12月9日、国事御用掛が設置され、実美もその一員となる[18]。

朝廷の掌握
この頃、実美は近衛忠房に「昔は野でしたから、(江戸のある武蔵国は)また『武蔵野』となってもよいでしょう」との放言から怒りを買い、薩摩藩や青蓮院宮尊融入道親王に不満を言い募るなどして両者の不信を買う[19]。武市半平太の土佐勤王党によって土佐藩をまとめ、長州藩とともに薩摩藩にへの圧力を掛けるべく動くなど[20]、当時の大久保利通からは、「長士の暴説に酔った」と評された[20]。

文久3年1月23日(1863年)、親薩摩派の関白・近衛忠煕が、実美らの攻撃に耐えかねて辞職し、長州藩士を多く出入りさせたために「長州関白」と呼ばれる鷹司輔煕が後任に就く[20]。2月20日、学習院で学ぶ公家たちに、草莽の志士が時事を顕現することが許され、公家たちは更に強く尊攘派の影響を受けるようになった[21]。2月22日には、尊攘派公家の押し上げにより、将軍後見職・一橋慶喜に攘夷期限の奏上を求め、この交渉役となった実美は、慶喜を激しく攻め立てて4月中旬を攘夷期限とする言質をとった[22]。

高齢で自信に欠ける鷹司関白が、実美ら尊攘派公家に抵抗できず、実美が「関白殿下ですら時に屈従する」ともいわれる権勢を誇り[23]、この状況を憂う青蓮院宮は、容堂に実美の説得を依頼しても効果はなかった[24]。当時は、尊攘派志士の活動が過激化しており、実美の師だった池内大学ですら殺害されるほどであった。実美は容堂に対し、志士たちが強く攘夷を迫る状況を説明し、「予が身の上をも推察せられたし」と訴えている[24]。2月21日に実美は議奏に任ぜられるが、病気を理由に辞退したい旨を述べたが許されなかった[24]。

3月4日には将軍・家茂が上洛し、実美ら尊攘派は圧迫を強めた。同月11日には、上賀茂神社・下鴨神社への攘夷祈願の行幸、4月11日には石清水八幡宮への行幸が行われ、攘夷を迫る将軍への圧力となった[25]。石清水行幸の当日、孝明天皇はめまいのために延期を求めたが、実美は許さず、無理に面会を迫って仮病かどうかを問いただしたという[26]。ついに5月10日の攘夷決行を約束させると、当日には、孝明天皇に「焦土と化しても開港しない」という勅を出させた。京都では、島津久光・松平春嶽・山内容堂といった公武合体派は去り、長州藩と尊攘派が掌握する事態となった[27]。しかし、この状況には孝明天皇ですら不快感を示すようになり、尊攘派公家を「暴論の堂上」と呼ぶようになった[26]。

姉小路公知暗殺事件
→「朔平門外の変」も参照
幕府は、攘夷派公家の筆頭である実美と公知の懐柔を図ったが、実美には効果がない一方で、公知が大坂で勝海舟との議論によって開国に傾いたという噂が立つ[28]。文久3年5月20日(1863年)の夜、御所退出後に北へ向かった公知は、御所・朔平門外で暗殺された。実美も公知と揃って御所退出したが、輿で青蓮院宮邸に向かうために東へと別れ、家臣が不審な人物を目撃している。家士の戸田雅楽(後の尾崎三良)は、実際の時間より遅い時間を告げて実美に訪問を諦めさせ、帰邸させた[28]。自宅で公知襲撃の報を聞くと、実美はすぐに姉小路邸を見舞う[28]。

薩摩藩の田中新兵衛に暗殺犯の容疑があり、長州藩と実美は薩摩藩排除に動くべく、さらに長州藩が直接朝廷に献金できるよう取り計らった[29]。しかし、孝明天皇は、薩摩藩排除の動きを「偽勅」とし、実美と徳大寺実則を「早々取除」くべきであると青蓮院宮に伝えている[30]。薩摩藩の調査によれば、権勢の頂点にある実美だったが、過激派の言動に引きずられ、今更意見を変えられずに嘆き、脚気の悪化からも邸に引きこもりがちで、「出家遁世したい」とこぼしていたという[31]。

失脚
→「八月十八日の政変」および「七卿落ち」も参照
文久3年6月(1863年)、尊攘派のイデオローグである真木保臣(和泉)が、久留米藩から上洛・学習院御用掛を拝命し、実美らに直接影響を与えるようになる[32]。保臣は「百敗一成」を唱え、攘夷の準備が整わなくとも、天皇が先頭に立って攘夷親征を行うことで世の動きも変わると主張し[32]、保臣を謀臣とみる実美は、長州藩とともに、攘夷親征のための大和行幸計画をたてて朝廷の方針とした[33]。しかし、孝明天皇は行幸を望まず、青蓮院宮[注 1]と薩摩藩に対して救いを求めると[34]、青蓮院宮ら公武合体派の皇族、公卿、薩摩藩、京都守護職・松平容保の会津藩らが連携し、長州藩と尊攘派排除のためのクーデター計画を進めた[31]。

同年8月13日、大和行幸を行う詔が出されるが、同月18日の朝、薩摩藩や会津藩などが御所九門を固め、攘夷急進派の公家を締め出した。実美の邸には、久坂玄瑞や宮部鼎蔵、土方久元と御親兵[注 2]らが駆けつける[35]。実美は状況把握のため、関白・鷹司邸にて、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修、錦小路頼徳、澤宣嘉と出会ったが、肝心の鷹司関白が参内したまま戻らず[35]、やがて、参内を停止され、長州藩も御所の警備から排除されたことが伝わった[35]。保臣や長州藩士との協議後、一旦妙法院に移ると、長州藩へ向かうこととなった[35]。

同月19日未明、七卿は京都を出発し、長州藩に向かった。慣れない徒歩のために実美は足から出血し、戸田雅楽らは住民を脅しつけて駕籠を用意させた[36]。一方で、徳島藩・広島藩・津和野藩に対し、義兵を挙げるため長州に有志を募る檄文を送る[36]。同月21日には、湊川で楠木正成の墓に参拝後、兵庫湊から船で長州を目指した[36]。同月24日、許可なく京都を離れたことから、七卿は官位を停止され、長州藩は京都での勢力を失う[37]。長州藩上層部は、七卿を迎え入れることを望まず、藩境で抑留して帰京勧告するつもりだったが、同月26日、27日に七卿の乗る船が長州藩領三田尻港に入港した[38]。このため長州藩は、七卿を賓客として迎え入れることとなり、公邸である三田尻御茶屋の「招賢閣」を居館とした[39]。この頃、土佐藩士・中岡慎太郎は、藩内の土佐勤王党排斥から、七卿の傘下として動くこととなる[37]。

長州藩の賓客
三田尻にて、七卿は奇兵隊を護衛とし、高杉晋作らと武力上京について協議する。9月28日には、平野国臣が訪れ、蜂起のために七卿の一人を主将としたい旨を告げられた。しかし、協議がまとまる前に、一人脱走した宣嘉が、国臣とともに生野の変で失敗してしまう[40]。

元治元年正月(1864年)、長州藩は、六卿を三田尻から山口の近郊に移すこととし、実美だけは湯田村高田へ移転[41][注 3]。ここでは、草刈藤太の邸に滞在して間もなく、井上聞多の実家[注 4]へと移ると、実美のために「何遠亭」と命名される離れが建設された[42]。

同月27日、孝明天皇から、七卿と長州藩攘夷派を批判する詔旨が出された。実美らが下賤な攘夷派の暴説を信用し、孝明天皇の「命を矯て」軽率に攘夷と討幕を企てたとされ、長州藩尊攘派も「必ず罰せずんばある可からず」と批判されたことから[43]、長州藩は、藩主父子と五卿[注 5]の赦免を求め、朝廷に働きかける。7月の藩主父子の上京と同時期に、五卿もこの動きを支持して京を目指した。7月21日には、讃岐国多度津に到着すると、禁門の変の敗報を受け、藩主父子と合流するために鞆に向かうも叶わなかった[44]。長州藩士・野村靖は、内訌必至の長州藩に戻るより、勤王派の強い岡山藩などに逃れるよう勧めたが、実美は、藩主世子定広とは進退をともにすると約したと謝絶し、上関を目指した[45]。

第一次長州征伐が迫る中、さらに長州には、下関戦争による四カ国連合の攻撃も加えられる。五卿は「長州藩と死生存亡を共にする」決意を固めるものの、恭順派が台頭した藩内では、五卿の引き渡しも検討された[46]。晋作らは一時、五卿の海外留学を思い立ち、実美も一時応諾したが、翌日になって断っている[47]。長州征伐総督府は、五卿を別々の藩が預かる方針を決め、福岡藩に説得役を依頼した。五卿からの条件として、藩主父子の赦免と京都の尊攘派公家の処分解除をもとめて交渉したが、次第に藩内でも、五卿の立場は悪化していった[48]。尊攘派の長州藩諸隊は五卿引き渡しと解隊方針に反抗し、五卿とともに長州藩支藩の長府藩にうつった[49]。慎太郎と征討総督府・西郷隆盛の交渉の結果、いったん五卿を筑前に移すことで合意された[50]。

太宰府での幽居
→「薩長同盟」も参照
慶応元年正月15日(1865年)、五卿は福岡藩黒崎湊(現:北九州市八幡西区)に上陸し、宗像の唐津街道赤間宿に1ヵ月間の宿泊を経て、2月13日に太宰府へ到着[51]。五卿の身柄は福岡藩が預かり、薩摩藩・久留米藩・熊本藩・佐賀藩から人を派遣・費用を提供するという形になっていた[51]。五卿の幽閉先は、太宰府天満宮の別当延寿王院であり、学問や身体の鍛錬を怠らずに日々を過ごした[52]。また、福岡藩尊攘派の早川養敬らが、薩摩藩と長州藩の提携を模索する中で、慎太郎や実美も共鳴すると、桂小五郎へ薩摩藩に対する認識を改めるよう伝えている[53]。小五郎は薩摩藩への信用に、「條公(実美)御明察」を通じて見定めるとしており、この後も坂本龍馬・伊藤俊輔・井上聞多らと面会して、薩長同盟成立の立役者の一人となった[54]。

慶応2年(1866年)には、幕府から使者が訪れて、五卿を大坂に移すよう求められる。しかし実美らは、死を賭してでも動かないと決めており、薩摩藩・熊本藩も強硬に反対したため、幕府は手が出せなかった[55]。この頃になると、幕府の失墜も明らかとなり、延寿王院は多くの訪問者で賑わいを見せるようになる[56]。翌年、慎太郎は京都の公家と実美を連携させる案を模索するが、かつての政敵・岩倉具視がその候補に挙がった。実美は具視がかつての「大姦物」であると難色を示したが、具視の縁戚である東久世通禧の説得で、提携を受け入れることとなった[57]。

明治維新
慶応3年10月27日(1867年)の将軍徳川慶喜による大政奉還後、12月8日に、五卿の赦免・復位が達成され[58]、翌9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令が発せられた。同月14日にこの知らせを受けた五卿は、同月21日に出港して長州藩を経て上洛し、同月27日に参内・議定に任ぜられる[59]。反幕派の大物である実美の復権は、朝廷内における薩摩・長州の力となった[60]。翌年には、具視とともに新政府の副総裁の一人となり、外国事務総督を兼ねる[61]。この時期は、堺事件の対応にあたり、「開国和親の布告」作成にも携わるなど、かつての攘夷方針を完全に捨てることとなった[61]。

戊辰戦争時には、閏4月10日、関東監察使として江戸へ赴き、彰義隊討伐を目指す大村益次郎を支持[62]。

明治2年(1869年)5月24日、右大臣・関八州鎮将となり[62]、5月29日には、官吏公選によって輔相に選出、7月8日には、新制・右大臣となった[63]。7月15日には、江戸から「東京」へと改称され、鎮将府新設による鎮将を兼任し[64]、岡谷繁実の意見を受け、東京への単独遷都も実現させる[65]。

実美は、東国と奥州を重視しており、「たとえ京摂を失(うしなう)とも、東京を失わざれば、天下を失うことなし」と述べている[65]。8月18日の政変以降幕府側から弾圧された経緯から、徳川家(幕府)及び会津藩に対し強い恨みを抱いており、旧幕府勢力への処罰では、厳罰を主張して戦後の石高を低く抑えた[66]。徳川家に対しては当初存続自体を反対し、徳川家を断絶すべきと主張[要出典]、最終的に徳川家は存続したものの当初新政府の方針であった徳川家に100万石程度与える処置案を、江戸に下った後に三条の判断で70万石に大きく引き下げた[要出典](静岡藩)。会津藩に対しても松平容保の死罪等厳罰を求めている[要出典]。また、箱館に籠もる榎本武揚討伐の総督として、前将軍・慶喜起用を検討された際には、奇策を用いるべきではないと反対している[67]。

太政大臣

聖徳記念絵画館壁画『廃藩置県』(小堀鞆音筆、酒井忠正伯爵奉納)廃藩置県を布告するため東京在京中の藩知事56名を召集した明治天皇と詔書を読み上げる右大臣三条実美。御帳台左側に控える左から2人目は木戸孝允、3人目は岩倉具視[68]。
明治4年7月14日(1871年8月29日)、西ノ丸御殿の紫宸殿代大広間にて、東京在京中の藩知事56名を前に、実美が右大臣として、「内以テ億兆ヲ保安シ外以テ万国ト対峙セントス因テ今藩ヲ廃シ県ト為シ務テ冗ヲ去リ簡ニ就キ有名無実ノ弊ヲ除キ更ニ綱紀ヲ張リ政令一ニ帰シ天下ヲシテ其向フ所ヲ知ラシム[注 6]」とした廃藩置県を申し渡す勅語を読み上げた[69]。

同年の制度改革により、太政大臣に任命。この役職は、律令下のものとは異なり、天皇の代行者としての役職であり、「万機条公に決」される体制を目指したものだった[70]。ただし、実美の役割としては、調整役やバランサーとしての面が大きい[71]。尚、伊藤博文は、実美が百官に尊重され、一度も悪評が起こったのを聞いたことがないと回想している[72]。

同年11月21日、岩倉使節団の派遣が行われ、実美は留守政府のトップとして、久光からの圧力、太政官制の改革、台湾出兵問題、朝鮮との国交問題などの様々な問題に取り組むこととなった[73]。

明治六年政変
→「明治六年政変」および「征韓論」も参照
新暦1873年(明治6年)6月、参議・板垣退助が朝鮮出兵を求め、隆盛からは、大使を派遣することを主張して、7月頃から隆盛自身を使節とする要求もあったが、実美は必ず殺されると反対した[74]。しかし隆盛は、実美を訪問するなどして圧力をかけ、8月17日には、隆盛の派遣が閣議決定された[74]。しかしこれは後に、実美が「初発僕等の軽率」と認めるように、征韓反対の立場にありながらの失策であった[75]。実美は明治天皇の元を訪れ、「岩倉帰朝の後に熟議」して決定するという「聖断」を受けた[76]。内藤一成によると、これは実美の主張をなぞっただけと考えられる[76]。

具視の帰朝後には、征韓反対派と隆盛らの争いが激化しており、政府分裂を恐れた実美は、10月15日に隆盛案を閣議決定し、派遣時期は軍備が整うまで未定として引き伸ばしを図る[77]。しかし、征韓反対派の具視・木戸孝允・大久保利通が辞表を提出すると、いずれにしても、分裂は避けられなくなった[78]。

同年10月18日、心身共に疲弊した実美は朝に倒れ、胸の痛みを訴える。この病状は、家近良樹によれば、狭心症か心筋梗塞、内藤一成によれば、脚気からくる心臓病(脚気衝心)と推測される[78]。これをうけて、利通が具視を太政大臣摂行(代理)とするよう働きかけ、具視は征韓論争の解決案を天皇の聖断に仰いだ[79]。同月24日には、宮中に影響力をもつ具視の意見が通り、隆盛らが政府を去ったものの[79]、実美の辞意は認められず、12月23日に参内・辞表提出するも却下され、太政大臣の職位は継続となった[80]。尚、この療養中、明治天皇は実美を見舞うため、一度は虎ノ門の三条邸、二度目には浅草[81]にあった別邸・対鴎荘の客間を訪れたという[82](別邸・対鴎荘についての詳細は、後述の「薨去・没後」または「#明治天皇行幸所對荘」を参照)。

島津久光との対立
1874年(明治7年)4月27日、隆盛なき新政府の安定を図るため、保守派重鎮の久光が左大臣となり、政府の欧化政策を批判・撤回させるべく動きを強めた[83]。久光は、幕末以来の親交を持つ華族を動員して政府に圧力をかけ、1875年(明治8年)には、太政大臣の権限を左右大臣に譲るよう働きかけて失敗し[84]、10月19日には、実美を辞職させるよう上奏[85]。久光は、親しい有栖川宮熾仁親王に裁定させて通そうとするものの、宮内卿・徳大寺実則は、右大臣・具視に裁定させるべきとして[86]、具視は実美を支持すべきと奏上したことで、またも弾劾に失敗する[87]。同月25日、正式に久光の免官が閣議決定[88]。内田政風、海江田信義、奈良原繁も実美を弾劾したが、いずれも退けられた[88]。

一方この頃、三条家の家令らによる事業失敗のため、実美は莫大な負債を抱える。毛利家の支援で破産は免れたものの、1905年(明治38年)になって完済する[89]。

政府はその後、利通の独壇場となり、実美はその方針をほとんど支持している。参議の間で意見がまとまらない場合、利通はほとんど発言せず、実美は議論の内容を伝えられた際に利通の意見を問い返すのが常であり、利通の意見をよしとすると、利通は実美の意見として参議をまとめていたという[90]。1878年(明治11年)、利通の暗殺後、博文と大隈重信が実力者となるものの、明治十四年の政変で重信が下野したのち、博文の独壇場となった。

1882年(明治15年)、実美は大勲位菊花大綬章を受章。1885年(明治18年)に太政官制が廃止され、内閣制度が発足すると、内大臣に転じた。実美の旧臣・尾崎三良はこの際、太政大臣辞任の撤回を訴えるが、実美は、国家将来のため他に策はないと伝えて断った[91]。

内大臣
内大臣職はしばしば実美を処遇するための名誉職と取られるが正確ではなく[92]、天皇親政の建前が取られた明治政府では、宮中において天皇を輔弼する重要な役割であった。自らを薩長のバランサーと位置づけていた実美は、藩閥内部の混乱時に力を発揮する[93]。また、政変や重要人事に関する天皇の下問には、職責よりも実美個人の人格に基づいて応じられ[93]、博文らの動きを阻害しないためにあえて主体的に動かず、宮中保守派を政治に介入させない重しとなった[94]。
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3. Please provide the relevant information within 48 hours to avoid missing the golden hour for reflection and causing situations that cannot be handled.
4. Due to 99% of Japanese sellers being unwilling or unaware of shipping goods overseas, if a seller is willing to handle the issue, the goods must be sent back to Japan, and the international shipping costs incurred must be borne by the member. Letao will use postal EMS international express to send the goods back to Japan.
5. As the goods are purchased from overseas, it may take approximately one to two weeks to complete the relevant processing procedures when issues arise with the goods. Please be reminded that you can inquire about the approximate cost through the EMS service at the post office.

4. FAQ

1. Issue of Authenticity: If antique or branded goods are found to be counterfeit upon receipt, clear photos showing the differences between the genuine product and the imitation must be provided as evidence. If unable to provide relevant proof, assistance can be sought to find a third-party reputable organization for a premium authentication service .
2. Leaking Iron Teapot: If an antique iron teapot is leaking, please take clear photos of the leaking area and provide them.
3. Transport Damage: If the goods are damaged during international shipping (to the pickup point), you need to provide photos of the outer packaging of the parcel and clear photos of the damaged goods' outer packaging.

※ Note: Photos provided to sellers should not contain any foreign-related information.
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    Product name: 【公爵・三条実美】明治古写真◆写真師昔台紙鶏卵紙肖像美人物幕末風景色爵位皇族皇室園祥子明治天皇武士戦前戦後大正軍人公家
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    • Monday to Friday 10:00-18:00
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    Customer Service Email: service@letao.my