1. 渇き
2026年2月8日、土曜日。大阪、心斎橋。
時刻は午後6時29分を回っていた。
Xiaomi 14 Ultraの冷たいレンズが捉えた世界は、残酷なほど鮮明だった。75mmの望遠レンズ越しに見る御堂筋は、インバウンドの熱気と、再開発で整然としすぎたビルの無機質な光に支配されている。
二階堂美咲は、スマートフォンの画面を指先で消し、ふう、と重い息を吐いた。
吐き出された白い息は、冬の寒さのせいだけではない。自身の内側に澱のように溜まった、鉛色の倦怠のせいだった。
今日、彼女は60歳になった。還暦である。
大手コンサルティングファー※Please confirm whether it is animal fur. Animal fur products are in conflict with the Washington Treaty and cannot be shipped internationally. ム「フェニックス・ストラテジー」の執行役員。年収は億を下らず、港区と芦屋にマンションを持ち、経済誌の「現代を切り拓く女性100人」に名を連ねる。
だが、今の美咲にあるのは、砂を噛むような乾燥した孤独だけだった。
「……キャンセルして正解だったわね」
部下たちが企画していたサプライズパーティーを、美咲は「急な体調不良」という嘘で当日にキャンセルした。
彼らの笑顔が怖いわけではない。彼らが向ける笑顔の裏にある、「接待」としての義務感を見るのが耐えられなかったのだ。かつて自分が上司に向けていた、あの空虚な眼差しを。
美咲は逃げるように会社を出て、気がつけば心斎橋の雑踏の中にいた。
目的もなく歩く足が、ふと止まる。順慶町(じゅんけいまち)。
かつて繊維問屋街として栄えたこの場所も、今は煌びやかなドラッグストアやホテルが並ぶ。だが、その喧騒から一歩引いた路地裏に、その店は静かに佇んでいた。
——ブランドクラブ。
知る人ぞ知る、高級宝飾とブランド品のセレクトショップだ。ここには、流行り廃りの激しい今のブランド品とは違う、時代を生き抜いた「本物」だけが集まる磁場のようなものがある。
重厚なガラスThe page has a fragile description, and fragile items cannot be shipped by sea. They can only be shipped by air. If the goods are not fragile, they can be shipped by air. 扉を押すと、カウベルの音と共に、微かな白檀と古い革の匂いが鼻孔をくすぐった。
「いらっしゃいませ。……おや、二階堂様ではありませんか」
店主の初老の男性が、磨き上げられたカウンターの奥から顔を上げた。彼は美咲の顔色を一瞥しただけで、余計な世間話を一切挟まず、ただ静かに会釈をした。こういう距離感が、今の美咲には心地よい。
「少し、強いものが見たいの。私の今の気分を、ねじ伏せてくれるような」
抽象的な注文だった。だが、店主は口元に微かな笑みを浮かべ、「少々お待ちください」と奥の金庫へ消えた。
数分後。
彼が持ってきたのは、黒いベルベットのトレイだった。その上に、たった一つ、指輪が置かれている。
美咲の視線が吸い寄せられた。
呼吸が、止まる。
「……赤」
ただの赤ではない。それは、深海の闇の中で何百年もの時をかけて凝縮された、生命の血そのものだった。
照明の光を吸い込み、内側からぬらりと発光しているような不気味なほどの艶。
「天然の血赤珊瑚(オックスブラッド)です。サイズは15.3ミリ」
「15ミリ……?」
美咲は眼鏡の位置を直し、思わず身を乗り出した。珊瑚において10ミリを超えれば大珠と呼ばれる世界で、15.3ミリという数字は異次元だ。
「しかも、見てください。この形。丸珠ではなく、わずかにドームを描くボタン系。それがこの石の『座り』を良くしています。まるで、惑星のようです」
店主がピンセットを使わず、白手袋をはめた手で恭しく指輪を差し出した。
美咲は震える手でそれを受け取る。
ずしり、とした重み。
8.24グラム。数値以上の質量を感じる。まるで、この指輪自体が意思を持って、美咲の掌に根を張ろうとしているかのような錯覚。
台座は現代の主流であるプラチナではない。K14WG——14金のホワイトゴールドだ。
昭和の中期からバブル期にかけて作られたと思われるその台座は、職人の手仕事による見事な透かし彫りが施されていた。
王冠のような爪(プロング)が、巨大な赤珊瑚を鷲掴みにしている。その姿は、獲物を捕らえて離さない猛禽類の爪のようでもあり、あるいは権力者が玉座を守るための剣のようでもあった。
「鑑別書はこちらに。ジェムリサーチジャパンのソーティングメモが付いております。『F4289』……これがこの子の管理番号です」
「F4289……」
美咲は呟きながら、その赤い球体を凝視した。
表面には一点の曇りもない。天井のダウンライトが映り込み、赤い宇宙に浮かぶ白い太陽のように輝いている。
17.29ミリという台座込みの直径は、指にはめれば関節を覆い隠すほどの威圧感があるだろう。
「サイズは8号です。ピンキーリングとしてお使いになるか、あるいはお直しも可能ですが……」
「いいえ」
美咲は遮った。
直感があった。これは、私の指輪だ。
8号。それはかつて、彼女がまだ若く、野心に燃えていた頃の薬指のサイズ。そして今は、少し節くれだった小指のサイズだ。
美咲は左手の小指に、その赤珊瑚を滑り込ませた。
金属の冷たさが肌に触れた瞬間、ドクン、と心臓が跳ねた。
指輪が脈打った気がした。
いや、気のせいではない。指の腹を通じて、珊瑚の奥底からドロリとした熱い何かが流れ込んでくる。それは活力であり、同時に強烈な「渇望」の味だった。
「これ、いただくわ」
美咲は即決した。価格などどうでもよかった。この赤を手放してはいけない。今の自分に欠けている「生への執着」が、この石には過剰なほどに詰まっている。
「ありがとうございます。……二階堂様、この石には不思議な言い伝えがありましてね」
会計を済ませ、包まれた指輪を受け取る際、店主が意味深な目を向けた。
「珊瑚は、持ち主の厄を吸うと言われています。ですが、これほど巨大なものになると、吸うだけでは飽き足らず、持ち主の運命そのものを書き換えてしまうことがあるとか」
「運命を書き換える?」
美咲は鼻で笑った。「今の私には、書き換えたい未来なんて残っていないわ。あるのは過去への後悔だけ」
「……過去もまた、運命の一部ですよ」
店を出ると、外は完全に夜になっていた。
冷たい風が吹き抜ける。だが、左手の小指だけがカッカと熱い。
美咲は我慢できず、路上で箱を開け、再び指輪をはめた。
Xiaomiのカメラを起動する。ISO200、1/102秒、f/1.8。
画面の中の赤珊瑚は、肉眼で見るよりもさらに鮮烈に、毒々しいまでの赤を放っていた。
「美しい……」
そう呟いた瞬間だった。
グニャリ。
視界の端から、風景が溶け出した。
最初は、めまいだと思った。徹夜続きの疲労が出たのかと。
だが、違う。
足元のコンクリートが波打ち、アスファルトが泥のように沈み込む感覚。
耳の奥で、キーンという高周波の音が鳴り響き、その直後、爆音のようなノイズが雪崩込んできた。
——ドンドコ、ドンドコ、ドンドコ。
腹に響くような、重低音のディスコビート。
——「おいコラ! どこ見て歩いとんねん!」
野太い大阪弁の怒号。
——排気ガスのむせ返るような臭いと、濃厚なタバコの煙、そして安っぽい香水の香り。
美咲は膝から崩れ落ちそうになり、とっさに近くの看板に手をついた。
その看板は、LEDの冷たい感触ではなく、熱を持ったネオン管の枠だった。
「うっ……」
強烈な吐き気に襲われ、美咲は目を閉じた。
世界が回転している。遠心分離機にかけられたように、今の記憶と、過去の記憶が混ざり合う。
60歳の知識、経験、狡猾さ。
24歳の情熱、無知、そして未練。
それらが赤珊瑚の指輪を媒介にして、強引に縫い合わされていく激痛。
「おい、ねえちゃん。大丈夫か?」
男の声がした。
美咲は荒い呼吸を整え、ゆっくりと目を開けた。
ぼやけた視界が、次第に焦点を結んでいく。
目の前に立っていたのは、見たこともないほど肩パッドの張った、紫色のダブルスーツを着た男だった。髪はジェルでテカテカに固められ、手には分厚いセカンドバッグ。
そして、男の背後に広がる景色に、美咲は絶句した。
心斎橋筋のアーケードではない。
そこは、毒々しいネオンの洪水だった。
原色の看板が、夜空を焦がすように明滅している。
行き交う人々は皆、何かに取り憑かれたように笑い、叫び、千円札の束を扇子のように振ってタクシーを止めていた。
シーマ。セドリック。クラウン。
角張った車体の列が、黒塗りの川となって御堂筋を埋め尽くしている。
美咲は震える手で、自分の顔を触った。
皺がない。
肌に、ピンと張り詰めた弾力がある。
視線を落とす。カシミヤのコートは消え、ボディラインを強調する真っ青なボディコンシャスなワンピースを纏っている。
そして左手。
あの巨大な赤珊瑚の指輪「F4289」は、小指ではなく、薬指に食い込むように嵌まっていた。
まるで、最初からそこにあるのが当然だと言わんばかりに。
美咲は近くのショーウィンドウ——そこには「ブティック・カメリア」というレトロなロゴがあった——に映る自分の姿を見た。
黒髪のワンレン。太い眉。意思の強そうな、しかしどこか不安げな瞳。
24歳。
二階堂美咲。
まだ何も持っていなかった頃の私。
「……戻った?」
声が震えた。だが、その声色は若く、張りがあった。
状況を整理しろ。美咲の中の「60歳のコンサルタント」としての人格が、即座に命令を下す。
夢ではない。この湿気、騒音、リアリティは夢の解像度を超えている。
タイムスリップ。
あり得ない事象だが、ビジネスにおいて重要なのは「なぜ起きたか」ではなく「どう対処するか」だ。
ふと、視界の端にある電光掲示板がニュースを流した。
『竹下内閣、支持率急落。リクルート事件の余波広がる』
『日経平均株価、3万4千円台を攻防』
1989年(平成元年)。
日本経済が狂乱の頂点へと駆け上がり、そして奈落へと突き落とされる直前の年。
美咲は掌を握りしめた。赤珊瑚の冷たい爪が皮膚に食い込む。
私は知っている。
これからこの国に何が起きるのか。
この街の不動産がどうなるのか。
そして何より——私が愛した男、桐島透が、どうやって破滅し、私の前から姿を消すのかを。
美咲の唇が、自然と笑みの形を作った。それは24歳の純朴な笑みではない。数多の修羅場をくぐり抜けてきた、魔女の笑みだった。
「面白いじゃない」
彼女は踵を返した。
向かう先は、順慶町ではない。
欲望の渦巻く街、宗右衛門町(そうえもんちょう)。
かつて自分がアルバイトをし、バブル崩壊と共に潰れ、借金を背負わされた伝説のクラブ「珊瑚礁」がある場所へ。
歴史を変えるのではない。
私が、歴史そのものになるのだ。
美咲が歩き出すと同時に、赤珊瑚の指輪が、ネオンの光を受けて血のように赤黒く瞬いた。
(第1章・前編 完 涙なしでは語れない感動の後編へ)