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【明治2年】大隈重信,伊藤博文,井上馨,五代友厚,土居通夫◆古写真◆藩士大臣写真師昔台紙鶏卵紙肖像美人物幕末風景色武士戦前戦後大正軍人
        

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【1869年】明治維新(明治2年)【御一新】~「築地梁山泊」の俊英たち〜

大隈重信(中央、民部大蔵省)伊藤博文(右端、民部大蔵省)井上馨(前列左、民部大蔵省)五代友厚(後列左)・澁沢栄一・前島密・山県有朋・中井弘・大江卓・土居通夫(後列2人目)らが築地本願寺近くの新婚の大隈邸(築地梁山泊。元旗本の旧宅、料亭「新喜楽」のある場所)で新日本建設を論議した 

大隈 重信(おおくま しげのぶ、1838年3月11日〈天保9年2月16日〉- 1922年〈大正11年〉1月10日)は、日本の政治家[1]・教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。菅原姓[2]。

参議、大蔵卿、内閣総理大臣(第8・17代)、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)内務大臣(第26・28代)、枢密顧問官、貴族院議員。報知新聞経営者(社主)[3]。聖路加国際病院設立評議会会長[4]。同志社社友[5]。

通貨・円の制定、日本初の鉄道敷設[6][7]、政党内閣制を基軸にした即時国会開設を主張するなど議会制推進。

東京専門学校(現・早稲田大学)を創設。官学に匹敵する高等教育機関を育成するために力を注いだ。また、日本における女子高等教育の開拓者の1人であり、成瀬仁蔵と共に日本女子大学を創設に関わったほか[8]、長崎の私塾でチャニング・ウィリアムズに師事して英学を学び、外交的素養を培った旧誼から[9][注釈 2]、立教大学の発展を深く支援した[11][12]。

略歴
幕末佐賀藩の上士の家に生まれて志士として活躍し、明治維新期に外交などで手腕をふるったことで中央政府の首脳となり、参議兼大蔵卿を勤めるなど明治政府の最高首脳の一人にのぼり、明治初期の外交・財政・経済に大きな影響を及ぼした。明治十四年の政変で失脚後も立憲改進党や憲政党などの政党に関与しつつも、たびたび大臣の要職を勤めた。明治31年(1898年)には内閣総理大臣として内閣を組織したが短期間で崩壊し、その後は演説活動やマスメディアに意見を発表することで国民への影響力を保った。大正3年(1914年)には再び内閣総理大臣となり、第一次世界大戦への参戦、勝利し、対華21カ条要求などに関与した。また教育者としても活躍し、早稲田大学(1882年、東京専門学校として設立)の創設者であり、初代総長を勤めた[13]。早稲田大学学内では「大隈老侯」と現在でも呼ばれる[14]。

生涯
生い立ち

佐賀県佐賀市に現存する大隈の生家(国の史跡に指定)

佐賀藩士時代の大隈
天保9年(1838年)2月16日、肥前国佐賀城下会所小路(現・佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の4人姉弟の長男(姉2人と弟がいる)として生まれる。幼名は八太郎。大隈家は、知行400石[15](物成120石[15][16][注釈 3])を食み、石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。幕末の上士出身で明治後半まで活躍した元勲には井上馨、板垣退助、後藤象二郎ら総理大臣には就けなかった者が多いが、大隈は数少ない例外である。

重信は7歳で藩校弘道館に入校し、『朱子学』中心の儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。安政2年(1855年)に、弘道館の南北騒動をきっかけに退学となった[18]。このころ、枝吉神陽から国学を学び、枝吉が結成した尊皇派の「義祭同盟」に副島種臣、江藤新平らと参加した。のち文久元年(1861年)、鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また、蘭学寮を合併した弘道館教授に着任したが、実際には講義は殆ど行わず、議論や藩からの命を受けて各地で交渉を行うなどの仕事をしている[19]。

文久2年(1862年)より、副島種臣、前島密らと共に米国聖公会のアメリカ人宣教師チャニング・ウィリアムズ(立教大学創設者)の私塾で英学を学ぶ[20][11][21][注釈 4]。ウィリアムズの私塾で儒学者の谷口藍田と知り合い、その後深く交遊していく[22]。

大隈は、長州藩への協力および江戸幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するにはいたらなかった。慶応3年(1867年)、長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「蕃学稽古所」(翌年、致遠館と改称[23])の校長で、オランダ出身の宣教師グイド・フルベッキに英学を学んだ。このころにアメリカ独立宣言などを知り、大きく影響を受けた。致遠館では、舎長・督学の副島種臣と共に教頭格となって指導にあたった。また京都と長崎を往来し、尊王派として活動した。慶応3年(1867年)、副島とともに将軍・徳川慶喜に大政奉還を勧めることを計画し、脱藩して京都へ赴いたが、捕縛のうえ佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受けた。謹慎後、大隈は鍋島直正の前に召され、積極行動を呼びかけたが容れられなかった[24]。

明治維新時の活躍

長崎時代の大隈重信(前列中央)。左端は伊藤博文、右端は井上馨。後列左より久世治作、中井弘。撮影・内田九一
慶応4年[注釈 5](1868年)、幕府役人が去った長崎の管理を行うために、藩命を受けて長崎に赴任した[24]。長崎では有力藩士との代表とともに仮政府を構成していたが、2月14日には朝廷より長崎裁判所総督澤宣嘉と参謀井上馨が赴任、引き継ぎを行った[25]。まもなく裁判所参謀助役として、外国人との訴訟の処理にあたった。3月17日、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられた。大隈の回想によれば、井上馨が「天下の名士」を長崎においておくのは良くないと木戸孝允に推薦したためであるという[26]。当時隠れキリシタンの弾圧である浦上四番崩れについて、各国政府との交渉が行われており、大隈はイギリス公使パークスとの交渉で手腕を発揮し、この問題を一時的に解決させ、政府内で頭角を現すこととなった[27][28]。この交渉の成功は、ウィリアムズとフルベッキから学んだ英学とキリスト教の知識の恩恵であった[9]。また、交渉には谷口藍田が同行している[28]。12月18日には前任の小松清廉の推挙により、外国官副知事に就任した[29]。

新政府での活動
→「大隈財政」も参照

壮年期の大隈
明治2年(1869年)1月10日、再び参与に任じられ、1月12日からは会計官御用掛に任ぜられた[30]。これは当時贋金問題が外交懸案の一つとなっていたためであり、大隈は財政や会計に知識はなかったが、パークスと対等に交渉できるものは大隈の他にはなかった[31]。2月には旧旗本三枝七四郎の娘、三枝綾子と結婚した[32]。美登との離婚は明治4年(1874年)に成立している[33]。

3月30日には会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定、版籍奉還への実務にも携わった。4月17日には外国官副知事を免ぜられたが、それ以降もパークスとの交渉には大隈があたっている[34]。7月8日の二官六省制度の設立以降は大蔵大輔となった。このころから木戸孝允に重用され、木戸派の事実上のナンバー2と見られるようになった[35]。またこのころから「八太郎」ではなく「重信」の名が使用されるようになる[36]。7月22日には民部大輔に転じ、8月11日の大蔵・民部両省の合併に基づき双方の大輔を兼ねた[36]。このころ大隈邸には伊藤博文や井上馨、前島密や渋沢栄一といった若手官僚が集まり、寝起きするようになった。このため大隈邸は「築地梁山泊」と称された[37]。強大な権限を持つ大蔵省の実力者として、地租改正などの改革にあたるとともに、殖産興業政策を推進した。官営の模範製糸場、富岡製糸場の設立、鉄道・電信の建設などに尽くした。しかしこれは急進的な改革を嫌う副島種臣や佐々木高行・広沢真臣といった保守派や、民力休養を考える大久保利通らの嫌うところとなった。

伊藤 博文(いとう ひろぶみ)旧字体: 伊藤 博文、1841年10月16日〈天保12年9月2日〉- 1909年〈明治42年〉10月26日)は、明治時代の日本の政治家[2]。位階・勲等・爵位は、従一位大勲位公爵。

大久保利通らの路線を受け継いで初代内閣総理大臣に就任し、近代立憲主義社会の基礎を築いた。 4度にわたって内閣総理大臣(初代・5代・7代・10代)を務め、一次内閣時には大日本帝国憲法起草の中心人物となり、二次内閣では日清戦争の講和条約である下関条約の起草にあたった。四次内閣の組閣に際して立憲政友会を結党して初代総裁となり、政党政治の道を開いた[2]。その他、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監、元老などを歴任した[2][3]。 今太閤とも称されたように、百姓の身分から初代内閣総理大臣に上り詰め、その後も元老として明治日本を牽引した、日本及びアジアの近代史を代表する人物の一人。

諱は、博文(ひろぶみ、「はくぶん」と読むこともある)。幼名は利助(りすけ)、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔(しゅんすけ)とし、さらに春輔(しゅんすけ)と改名した。明治初期に政府公文書で本姓やカバネを使うことが義務づけられていた時期には河野氏の末裔であることから越智宿禰(おちのすくね)博文と署名した[4][5]。

概説
周防国の百姓の子として生まれる。父が長州藩の足軽伊藤家に入ったため、父とともに下級武士の身分を得る。

吉田松陰の私塾である松下村塾に学んだ。尊王攘夷運動に参加したが、1863年には藩命により井上馨らとともにイギリスに密航、留学して開国論者となる[6][3]。1864年にロンドンで四国連合艦隊の長州藩攻撃の計画を知り、急遽帰国し、藩主毛利敬親に開国への転換の必要を説いたが、受け容れられなかった。同年幕府による第一次長州征伐に対する藩首脳の対応に憤慨した高杉晋作が起こした功山寺挙兵に参加。この藩内戦の勝利により藩主流派として藩政改革に参画するようになり、主に藩の対外交渉の任にあたった[3]。

明治維新後の1868年から政府に出仕し、外国事務掛、参与、外国事務局判事、初代兵庫県知事などを歴任。1869年(明治2年)には陸奥宗光らとともに当面の政治改革の建白書を提出して開明派官僚として頭角を現した。また大蔵少輔兼民部少輔として貨幣制度の改革を担当し、1870年(明治3年)には財政幣制調査のために渡米、翌年の金本位制の採用と新貨条例の公布を主導した。1871年(明治4年)岩倉使節団の副使として外遊。この間に大久保利通の信任を得た[3]。

1873年(明治6年)の帰国後には大久保らとともに内政優先の立場から西郷隆盛の征韓論に反対し、同年10月に西郷らが下野すると大久保の片腕として参議兼工部卿に就任した[2]。1878年(明治11年)に大久保が不平士族に暗殺されると、その後を継いで内務卿に就任。政府の中心人物として琉球処分、侍補制度の廃止、教育令の制定などを推進した。

1881年(明治14年)大隈重信がイギリス型議会政治を目指す憲法意見を提出すると、その急進的内容に伊藤が反対し、大隈ら開明派官僚は下野した(明治十四年の政変)[2][3]。1882年(明治15年)ドイツやオーストリアの憲法調査を行い、1884年(明治17年)に宮中に制度取調局を創設してその長官に就任、立憲体制への移行に伴う諸制度の改革に着手した[3]。

井上 馨(いのうえ かおる、1836年1月16日〈天保6年11月28日〉- 1915年〈大正4年〉9月1日)は、日本の政治家[3]。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。

長州藩の藩主側近から尊王攘夷運動に参加し、イギリスへの密航をきっかけに開国論者となり、長州藩における倒幕運動の中心人物として活動した[3]。太政官制時代に外務卿、参議などを歴任し、長州閥の重要人物となった。第1次伊藤内閣成立により外務卿改め外務大臣を務め、「鹿鳴館外交」を展開し不平等条約改正に臨み、黒田内閣で農商務大臣、第2次伊藤内閣で内務大臣、第3次伊藤内閣では大蔵大臣など要職を歴任、元老の一人として政財界に多大な影響を与えた[3]。

幼名は勇吉、通称は初め文之輔だったが、長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(ぶんた[4])に改名した。諱は惟精(これきよ)。雅号は世外(せがい)[5]。志士時代の変名は春山花輔、高田春太郎など[6]。

生涯
生い立ち
長州藩・井上光亨(五郎三郎、大組・100石)と房子(井上光茂の娘)の次男として、周防国吉敷郡湯田村(現・山口市湯田温泉)に生まれる。 家系である安芸井上氏は河内源氏の流れをくむ安芸国人の出身で[7]、毛利氏の家臣内で権勢をふるったものの井上党誅殺事件で毛利元就によって粛清を受けた。しかし一族の井上就在は早くから元就に忠実に仕えていたため存続し、玄孫の井上就勝は祖父の禄100石を相続して分家した[8]。馨の井上家はこの系統である。

嘉永4年(1851年)に兄の井上光遠(五郎三郎)とともに藩校明倫館に入学。なお、吉田松陰が主催する松下村塾には入塾していない。安政2年(1855年)に長州藩士志道家(大組・250石)の養嗣子となった。

同年10月、藩主毛利敬親の江戸参勤に従い下向、江戸で伊藤俊輔(伊藤博文)と出会い、岩屋玄蔵や江川英龍、斎藤弥九郎に師事して蘭学を学んだ。万延元年(1860年)、敬親の小姓に加えられた[5]。この際に敬親より「聞多」の名を与えられている。同年に敬親に従い帰国、西洋軍事訓練にも加わり、文久2年(1862年)に敬親の養嗣子毛利定広(のちの元徳)の小姓役などを務め江戸へ再下向した[9][10][11][12]。

志士時代

長州五傑(長州ファイブ)。上段左から時計回りに遠藤謹助、井上勝、伊藤博文。山尾庸三、井上馨
江戸遊学中の文久2年(1862年)8月、藩の命令で横浜のジャーディン・マセソン商会から西洋船壬戌丸を購入したが、次第に勃興した尊王攘夷運動に共鳴し、過激な攘夷思想を抱くようになる。同年11月には高杉晋作とともに、金沢を訪れた外国公使を殺害する計画を立てたが、山内容堂から定広に告げられたことで失敗し、謹慎を命じられた[13]。謹慎中の井上は高杉・久坂玄瑞・山尾庸三らとともに「此度我々共夷狄を誅戮し、其の首級を提げ罷帰」という血盟書に署名し、「御楯組」を結成した[14]。12月12日、御楯組と伊藤らはイギリス公使館焼討ちを実行した[15]。

その後は一旦京都に潜伏したが、翌文久3年(1863年)正月20日に定広の小姓役として復帰した[16]。この頃、久坂と山縣半蔵(宍戸)から佐久間象山の海軍論を伝え聞いて魅了され、「外国に出で海軍のことを研究して日本に海軍を興さう」と洋行の意思を持つようになる[17]。山尾・野村弥吉(井上勝)は井上とともに洋行することを望んでおり、これを受けた井上は洋行を定広に懇願した[18]。3人の洋行は藩に許可され、600両の留学費用を受けた上に、井上は敬親から「量時度力」、定広から「思辮」の書を賜った[19]。また5月には志道家と離縁して、井上家に戻っている[6]。

留学のために江戸に向かった井上らだが、イギリス領事エイベル・ガウワーから留学費用は一人当たり1000両におよぶと言う話を聞いた。さらに伊藤・遠藤謹助らも洋行を希望して参加したため、留学費用には5000両が必要であった。井上は麻布藩邸の村田蔵六(大村益次郎)のもとを訪れ、藩の鉄砲買い入れ資金一万両を担保に5000両を融通してもらえないかと交渉した。村田の斡旋で大黒屋六兵衛から5000両を借り受けた5人は、5月11日に断髪・洋装の姿で蒸気船に乗り、出国した[20]。8月15日、上海を訪れた井上は、その地で大量の外国軍艦を目にして攘夷の無謀さを知り、開国論者に転じた[21]。

9月23日に井上・伊藤はロンドンに到着し、上海から別便で来ていた山尾らと合流した[22]。彼らは「長州ファイブ」、日本では「長州五傑」とも呼ばれている。ロンドンではユニバーシティ・カレッジ・ロンドンに学ぶ。翌元治元年(1864年)の春、長州藩が外国商船に対して砲撃したという事件を知った井上は、「一旦帰朝し、君公または当路の士に面して欧州の形勢事情を詳説し、鎖国の陋見を破る開国の方針に一変せしめねばならぬ」と決意し、伊藤とともに帰国することとなった[23]。この際、山尾らも帰国の意思を示したが、井上は「五人一同帰国して一時に死地に入るのは策の得たものでない」と説得し、三人はロンドンで留学を継続した[23]。

3月に中旬に井上らは出国し、6月10日に横浜に到着した[24]。しかしこの直前にはフランスとアメリカの軍艦による下関攻撃が行われていた。井上と伊藤はイギリス公使ラザフォード・オールコックに面会し、藩論を転換させるから出兵を延期してほしいと懇願した[24]。オールコックは延期を了承し、井上らはイギリス・フランス・アメリカ・オランダ四カ国公使の書簡を持って長州に戻ったが、藩内部では「外夷」のスパイ、「売国奴」と罵られる有り様であった[25]。藩兵の主力を京都から呼び戻す必要があると判断した藩の主戦派は、交渉の引き伸ばし役を井上と伊藤に命じた[26]。しかし京都の藩兵は禁門の変によって敗れ、長州は幕府と四カ国艦隊を敵にわす自体に陥った。8月3日、井上が砲撃の延期を交渉するために艦隊に向かおうとしたところ、四カ国艦隊は一斉に砲撃を開始、下関戦争が始まった[26]。井上は一旦戦争となったからには死を賭けて戦うべきであると主張し、敗北によって和議に傾いた藩内でも強硬に主戦論を主張した[27]。世子定広は「以権道講和(講和はあくまで策略である)」という書を渡して説得しようとしたが、井上は詐謀を用いて和議しても外国には見抜かれ、より厳しい懲罰を受けると反発した。これを受けた定広は「以信義講和(信義をもって講和する)」という書を渡し、藩論は講和に定まった[27]。


五代 友厚(ごだい ともあつ、天保6年12月26日〈1836年2月12日〉 - 明治18年〈1885年〉9月25日)は、日本の実業家[2]。薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現在の鹿児島県鹿児島市長田町)生まれ[3]。贈正五位、勲四等。通称は才助。

大阪経済界の重鎮の一人。

→「§ 年譜・功績」を参照
大阪市の本邸跡は大阪科学技術館・日本銀行大阪支店になっている。当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図った。

経歴
生誕と幼少期
五代は、薩摩藩の上級藩士で儒学者の五代直左衛門秀尭の次男として生まれる[4]。幼名は徳助または才助[5]。母はやす子、五代は兄の徳夫、姉広子、妹信子の4人きょうだいだった[5]。五代家は代々島津家に仕え、石高も禄高も高い由緒正しい家柄だった[6]。生家は、鹿児島城至近の城ケ谷村、現在の長田町にあった[4][5]

幼少期については不明な点が多い[7]。有名なエピソードとして、藩主の島津斉彬が、五代の父・秀尭に外国の地図の模写を命じ、友厚が外国語で書かれた地図を2枚模写し、1枚を島津斉彬に献上し、1枚を友厚が自室に飾ったというエピソードがあるが、近年の検証の結果、地図の模写は友厚ではなく、兄の徳夫が模写したというのが実情である[7]。地図を模写した時点で友厚の実兄・徳夫は13歳で、友厚は6歳ということを考えると、友厚によるものとは考えにくい[7]。

児童院にて修学し、その後10歳の時に、薩摩藩の藩校である造士館に就学する[7][5]。造士館の同窓生には、後に家老となる小松帯刀がいる[8]。

武士・役人として

五代が留学した長崎海軍伝習所の絵
安政元年(1854年)、マシュー・ペリーが浦賀沖に来航し天下は騒然となる[9]。同年、父の秀尭が死去し、藩の郡方書役に出仕することなる[10]。ペリーの来航など、外国船の来航により、幕府は長崎に海軍伝習所を開設し、五代は長崎海軍伝習所への留学命令が下される[9][10]。長崎海軍伝習所では、勝海舟、榎本武揚らと同窓生となる[11][12]。同伝習所において、航海術、軍事教練、外国語を学ぶ[4][11]。長崎海軍伝習所の教官であったヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケの日記には、勝海舟、松木弘安(寺島宗則、以降寺島宗則と記載)、榎本武揚を高く評価する一方、五代の名前は出ていない[11][13][14][12]。

1年半ほど長崎海軍伝習所にて学び、1858年に藩主の斉彬が死去したため、一旦薩摩藩に帰藩したが、再び長崎へと戻る[15][16]。以降、明治新政府に出仕するまで約11年間を長崎で過ごした[16] [10]。1862年1月、藩の船舶や軍艦の購入や管理を行う御船奉行副役を拝命する[17]。薩摩藩は、軍艦製造に着手したものの、性能は悪く、外国製の軍艦購入に方針転換する[15][17]。五代は長崎赴任中に、トーマス・ブレーク・グラバーと交流を深めており[4][16]、御船奉行副役拝命後、グラバーと共に上海まで行き、4万両の艦船買い付けを行った[17][10]。また、同年4月にも、上海に渡航する[17][10]。2度目の上海渡航時は、水夫として身分を詐称し、上海の市況調査を行った[10][18]。この時、同行者には高杉晋作がいた[18]。

薩英戦争とイギリス留学同行

イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘
1862年8月21日、生麦事件が起こる[19] [20]。事件の処分を巡る対立から薩摩藩とイギリスの間で薩英戦争が勃発し[19][21]、五代は寺島宗則と共に捕虜となる[22]。この時、五代は薩摩藩には強大な兵力がいると誇張し、イギリス軍に上陸作戦を思いとどまらせたという逸話があるが、これは過大評価とみる向きもある[22]。

五代らは横浜にて釈放されたが、捕虜となったため評判を貶めてしまい、横浜周辺で潜伏した後、1864年1月に長崎へと場所を移し、隠遁生活を送った[4][23]。隠遁生活中、十か条からなる意見書を薩摩藩に提出した[4][23]。意見書の内容の詳細は分かっていないが、英仏への留学生派遣、産業振興、軍備の増強などであると見られている[23][20]。

五代の意見書によって、家老のとなっていた小松帯刀は英仏への留学生派遣を決定し、1864年5月頃に五代を薩摩藩に呼び戻した[24][25]。イギリスへの留学生派遣が決定され、五代はグラバーと連携し、留学に向けた手配を行った[26]。五代自身も留学生の一団の御船奉行副役(副団長)として同行している[4]。

薩摩藩遣英使節団は、1865年3月22日に薩摩を出港し、船内で髷を切り、香港で洋装を調達した[24]。そして、5月28日、サウサンプトン港に到着する[27][26]。到着後、イギリス、ヨーロッパ大陸の視察を行い[27]、イギリスでは、紡績機械や銃、双眼鏡を買い付けた[28][27]。そして、ベルギーまたはロンドンにおいてシャルル・ド・モンブランと出会い、商社の設立を合意する[29][30]。この商社設立については、詳細は不明であるが、様々な理由によって実現することは無かった[31][29][32]。

ロンドン滞在中に、同地より薩摩藩に向けて18か条からなる建言書を送付する[33][34]。この建言書には、ベルギーとの和親条約の締結と同国との商社設立、富国強兵、殖産興業、パリ万国博への出展が提言されていた[28][34][35]。

帰国と明治政府官吏時代

五代が設立に関与した旧鹿児島紡績所技師館

薩摩藩士五代才助・小松帯刀と英人T・B・グラバーらの尽力で設けられた小菅修船場跡
五代ら薩摩藩遣英使節団は、1866年2月に帰国する[36][37]。1867年4月、薩摩藩はパリ万国博への出展を決定し、五代は帰国後、御用人外国掛を命じられ、長崎に在勤しながら、万国博出品に貢献する[33][38]。また、グラバーと共に、武器の買い付けを行い、長州藩へと供給した[39]。

1867年12月、新政府が樹立されると、与兼外国事務掛となり[40]、大阪に勤務する[4][39]。これは、今でいう外交官に相当する官職であった[4]。だが、外国事務掛の職名は頻繁に変わり、1868年1月23日には大阪外国府事務掛に、2月20日には大阪外国掛判事、6月5日には大阪府権判事、9月19日に大阪府判事と変わった[41]。


慶応4年2月15日(1868年3月8日)に和泉国堺町内で起こった堺事件
この頃の関西は治安が極めて悪く、外国人と日本人による衝突が相次いでおり、薩摩藩には外国人の安全を守る任務があった[42]。1868年2月に起きた神戸事件では、五代は事件の処理に当たった[43]。事件は責任者あった滝善三郎の切腹と彼が率いた第3砲兵隊の謹慎と言う形で決着したが、五代は伊藤博文と共に滝の助命嘆願に奔走し、外国公使らと交渉したが纏まらず、その旨を永国寺にいる滝へ直接報告している[44]。神戸事件の処理後間もなく、堺事件が起きる[45][46]。これは、土佐藩士が堺に現れたフランス水兵11名を殺害した事件で、フランス公使レオン・ロッシュが抗議し、加害者である土佐藩士20名の処刑と、賠償金を要求した[46][47]。五代は行方不明となっていたフランス水兵の遺体の捜索と回収に当たったが、期日の時間に間に合わないことを悟り、一計を案じて自身の懐中時計を数時間遅らせたことで、期日通りに引き渡した[46][48]。

堺事件後、京都において明治天皇と外国公使が謁見することになっていたが、今度はイギリス公使ハリー・パークスの一行が切りつけに遭った。これを知ったフランス公使レオン・ロッシュが兵庫から横浜に退避しようとしたが、五代の説得により思いとどまり、予定通り天皇と謁見し、兵庫へと戻った[49]。

土居 通夫(どい みちお、1837年5月25日(天保8年4月21日) - 1917年(大正6年)9月9日)は、幕末の宇和島藩士、明治時代の実業家、大阪財界指導者、衆議院議員。関西法律学校名誉校員[1]。大阪市の本邸跡は日本銀行大阪支店になっている。

略歴
宇和島藩時代

大阪商工会議所の土居通夫像
伊予宇和島藩士の大塚南平祐紀のの六男として生まれる。4歳のとき藩士・松村彦兵衛清武の養子となり保太郎と改名。少年時代には三好周伯に書道を学び、藩校明倫館で大阪の越智士亮の弟子である金子春太郎に漢学を学ぶ[2]。12歳からは、窪田清音から免許皆伝を許可された窪田派田宮流剣術師範・田都味嘉門の道場に入門、竹馬の友である児島惟謙と共に剣術修業に励み、16歳正月に初伝目録を授与された。同じころ壱岐三郎太夫に越後流軍学、不川顕賢に算数を学ぶ[3][4]。17歳で元服、彦六と改めた。

この頃の宇和島藩は海外への関心を強め、高野長英を匿って、蘭学の師に迎えていた。やがて長英に替わり緒方洪庵の高弟である村田蔵六に兵書、砲台の設計を翻訳させていた。家が近かった蔵六の門人である立田春江と親しくなり、長英の門人である大野昌三郎とも交友があったことから蘭学にも関心を持つが、途中で諦める[5]。

22歳で窪田派田宮流の免許皆伝を授与された後、1861年(文久元年)に田都味道場へ坂本龍馬がやってきて、道場に他流試合を申し込まれている。この時に龍馬から「脱藩すればいい、こんな城下で何ができるのか。」と言われる。この時は驚いたが後に脱藩する行動のきっかけとなった[6]。23歳で養家を去り、父の母方の姓である土居を名乗る[7]。

剣豪商人
1865年(慶応元年)、勤皇を志して脱藩、土肥真一と改名して大坂に出る。伯父の紹介で大身代の金貸し・高池三郎兵衛家を紹介され、用心棒として奉公、町内の夜警一切を任されるようになるが、剣だけでなく金銭出納の能力を発揮する。半分商人の剣客として大阪で評判になった頃、宇和島で匿われていた薩摩藩の中井弘と再会したことがきっかけで勤皇運動に関わる。鳥羽・伏見の戦いにおいて土佐藩の後藤象二郎配下で活躍、遠からず京が戦乱に巻き込まれるから、その時は宇和島藩邸に米を送ってほしいと、大津の米問屋で依頼する。戦いの後、この功を認められたこと、薩摩藩からの謹白書が出されたことで帰藩する[8]。

王政復古後、宇和島藩主・伊達宗城が議定職外国係と大阪鎮台外国事務を兼務すると、外国事務局大阪運上所に勤務する。ここで外国事務局判事に就任した五代友厚の部下となったことが生涯の重要な方向付けとなる。1869年(明治2年)には大阪府権少参事となった。1872年(明治5年)、親友の北畠治房に誘われて司法省に出仕して兵庫裁判長、大上等裁判長を歴任、児島惟謙と再会する[9]。退官までに井上馨、伊藤博文、大隈重信、大久保利通らとの政界人脈を築くと同時に、住友家、鴻池家ら大阪財界と関係を深めた[10]。

1884年(明治17年)、鴻池善右衛門が府知事・建野郷三へ事業再建のための人材紹介を懇願、建野が五代友厚に相談すると「土居通夫以外にありえない。」と進言される。これにより司法省を退官、鴻池善右衛門家の顧問となり諸事業に参画、「剣豪商人」と言われた[11][12][13]。

大阪電灯を設立
1887年(明治20年)頃、大阪での本格的な照明を東京に倣ってガス灯にするか、電灯にするか大阪の有力者の間で対立が続いていた。大阪でも東京同様にガス会社の経営を目論むものが多かったが、東京電灯が既設のガス会社の供給区域に侵入して、電灯が増加していくのを見て、ガス灯より電灯が優位ではと主張するものが増えてきた[14]。通夫は電灯派とガス灯派を電灯への斡旋調整を行い、1888年(明治21年)、大阪電灯を設立して初代社長に就任、30年務める[15]。東京、神戸ともに直流を採用していたが、大阪電灯は交流を採用したことが注目された[14]。

1889年(明治22年)には、長崎での発電を計画する二陣営の仲裁に乗り出してまとめ、長崎電灯を設立、初代社長に就任した[16]。

宇治川電気の創立にあたっては、京都電灯に呼びかけて、淀川上流の宇治川水系に水力発電所を設置して、都市部に供給する計画を推進、滋賀県地方の動き、岩谷松平と三者競願の状態に陥ったが、、大阪商船の中橋徳五郎の調整によって、創立委員長として、1906年(明治39年)に京都で宇治川電気株式会社を創立し、1913年(大正2年)に宇治水力発電所(宇治市宇治山田)を完成させると京阪地域への電力供給を開始した[17]。

1892年(明治45年)、日本電気協会関西支部が、東京中心の運営に反発して1913年(大正2年)分離独立し、日本の中央であるとして、土居は大阪に「中央電気協会」を設立した。1914年(大正3年)11月6日、土居を中心に、電灯、電力、電鉄、電機、電線会社等が主体となって、社交組織である関西電気倶楽部を創立、翌年の1914年(大正4年)、中央電気倶楽部に名称変更した。「中央」という名に、東京に対する当時の大阪財界人の気概を感じさせると今に伝えられている[18]。
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    Product name: 【明治2年】大隈重信,伊藤博文,井上馨,五代友厚,土居通夫◆古写真◆藩士大臣写真師昔台紙鶏卵紙肖像美人物幕末風景色武士戦前戦後大正軍人
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