1981年に公開された『ヨコハマBJブルース』は、日本映画がスタジオシステムの崩壊という荒波に揉まれ、劇的な変質を遂げていた時代に産み落とされた異形の傑作です。この作品を語る上で欠かせないのは、主演の松田優作が自ら企画に携わり、これまでの「遊戯シリーズ」などで築き上げたアクションスターとしての虚像を、自らの手で解体しようとした意志の強さです。しかし、本作を単なる俳優のキャリアの転換点として片付けることはできません。なぜなら、ここには当時の撮影技術と照明技術、そして横浜という街が持つ特有の湿り気が奇跡的なバランスで結実しており、今なお色褪せない視覚体験を観る者に与え続けているからです。
この映画の視覚的な個性を決定づけているのは、撮影監督である仙元誠三が完成させた独自の色彩感覚です。冒頭から全編を支配する、深く、それでいて透明感のある青色のトーンは、観客の視覚を現実から切り離し、どこか幻想的な虚無の世界へと誘います。この色調は、日中の屋外であってもあえて色温度を調整しない手法や、特定のフィルターを排除することによって生み出されました。画面の隅々にまで浸透しているこの青は、主人公であるBJが抱える孤独や、彼が歌うブルースの旋律と見事に共鳴しています。夜のヨコハマの街並みは、単なるロケーションを超えて、それ自体が意思を持った登場人物のように蠢いています。
仙元誠三のカメラワークと、照明の渡辺三雄が作り出した光と影のコントラストは、まさに白眉と言える水準に達しています。特に、望遠レンズを多用した極端に浅い被写界深度によるショットは、人物を背景から浮き上がらせるだけでなく、その人物が置かれた空間の密度を濃縮して伝えます。夜の闇の中に浮かび上がる街灯の滲みや、濡れたアスファルトに反射するネオンの光は、粒子の一つひとつが感情を持っているかのような繊細さを湛えています。光が当たっている部分よりも、むしろその影に隠された部分にこそ真実が宿っていると感じさせるこの手法は、ハードボイルド映画としての品格を決定づけました。
演出を担った工藤栄一の功績も計り知れません。集団抗争劇や時代劇で辣腕を振るってきた工藤は、本作において、静止した時間の積み重ねによって物語を構築するという手法を選択しました。アクションシーンであっても、物理的な激しさよりはむしろ、その場に漂う緊張感や、決定的な瞬間が訪れるまでの「溜め」に焦点が当てられています。松田優作という強烈な個性を、あえて抑制の効いた演技に封じ込め、その背中で語らせる工藤の演出は、俳優としての新たな可能性を最大限に引き出しました。BJという男が、かつての友人を殺され、自らも泥沼のような事件に巻き込まれていく過程は、言葉ではなく、光の移ろいと空間の切り取り方によって表現されています。
また、脚本を担当した丸山昇一による物語の構成は、伝統的な探偵映画のプロットをなぞりながらも、その実、極めて私的な「喪失」の記録として描かれています。BJが探偵として追う事件の真相は、次第に彼の過去や内面と分かちがたく結びついていきます。かつての恋人との再会や、美しい少年との邂逅、そして裏切り。これらのエピソードは、単なる物語上の仕掛けとしてではなく、BJという人間の輪郭を浮き彫りにするための試練として機能しています。特に後半にかけて加速する、論理を超えたエモーショナルな展開は、観る者の倫理観を揺さぶり、深い余韻を残します。
音楽を担当したクリエイションと、劇中で松田優作自身が歌うブルースは、映像美をさらに高める不可欠な要素です。劇伴として流れる都会的で乾いたロックの響きと、BJが場末のバーで絞り出すような声で歌う泥臭いブルース。この対比が、横浜という街が持つ二面性を象徴しています。音楽は単なる伴奏ではなく、映像の一部として呼吸しており、音と光が渾然一体となって観客の感性に訴えかけてきます。特にBJが歌うシーンでは、カメラは彼の表情を執拗なまでに捉え続け、歌声に込められた魂の震えを視覚化することに成功しています。
本作の白眉として挙げられるのは、終盤における少年との別れのシーンです。ここでは、映像の美しさが最高潮に達すると同時に、物語が持つ残酷なまでの純粋さが爆発します。少年の遺体に向けられるBJの視線と、その場を包み込む非現実的なまでの光の演出は、もはや映画という枠組みを超えて、一種の宗教画のような崇高さを感じさせます。この場面に漂うエロティシズムと死の香りは、当時の日本映画が到達した一つの極北と言えるでしょう。美しさが悲劇を際立たせ、悲劇がさらなる美しさを生むという円環構造が、ここでは完璧に完成されています。
『ヨコハマBJブルース』が現代においてもなお、多くの映画ファンやクリエイターを惹きつけて止まない理由は、それが単なる娯楽作品としての枠を大きく踏み越え、表現者の執念が凝縮された純粋芸術に近い領域に達しているからです。妥協のない画作り、俳優と監督の魂のぶつかり合い、そして時代の空気を鋭敏に捉えた感覚。これらすべてが奇跡的に交差した瞬間が、112分のフィルムの中に永遠に刻まれています。観客はBJの歩む孤独な道筋を追体験しながら、いつしか自らもまた、その青く染まった横浜の闇の中に迷い込んでいくような錯覚に陥ります。
最後に、この映画が提示した「個」のあり方についても触れておかなければなりません。組織や体制からこぼれ落ち、自らの流儀だけで生きるBJの姿は、高度経済成長を経て画一化されていく社会に対する、映画からの痛烈な返答でもありました。その反逆の精神は、声高な叫びとしてではなく、ひそやかに、しかし力強く画面を支配する色彩と光の中に宿っています。私たちがこの映画を観て感じるのは、失われた時代への郷愁だけではありません。それは、自らの意志で世界を捉え直そうとする、表現者たちの孤独な挑戦がもたらす清々しいまでの感動です。
このように多層的な魅力を備えた本作は、日本映画の歴史を語る上で欠かすことのできない、まさに孤高の記念碑と言えます。映像という媒体が、いかにして人間の内面を、そして街の魂を写し取ることができるのか。その究極の回答がここには提示されています。時間が経過し、撮影場所となった横浜の風景がどれほど変わろうとも、フィルムに焼き付けられたあの青い光と、BJが口ずさむブルースの旋律は、いつまでも私たちの記憶の中で響き続けることでしょう。
さらに深くこの作品の映像美に踏み込むならば、その質感についても言及すべきです。35mmフィルムが持つ独特の粒子感は、デジタル撮影では決して再現できない肉体的な実感を伴っています。雨上がりの街角に漂う湿気や、タバコの煙が照明に透ける様子、あるいは松田優作の肌に浮かぶ汗のひとしずくまでが、生々しい生命力を放っています。これらは単なる技術的な特性ではなく、その場の空気そのものを定着させようとしたスタッフたちの意志の集積です。視覚を通じて触覚を刺激されるようなこの体験こそが、本作を特別な存在にしています。
物語の結末において、BJは再び街の喧騒へと消えていきますが、その足取りには、何ものにも縛られない自由と、それゆえの深い孤独が同居しています。映画のラストショットが映し出す光景は、観る者に対して、自分自身の「ブルース」をいかに奏でるべきかを問いかけているかのようです。卓越した美学に裏打ちされたこの物語は、単なるフィクションの枠を超え、一つの生き方の提示として結実しました。私たちはこの映画を通じて、闇の中にこそ真実の光があることを、そして美しさは常に痛みを伴うものであることを、改めて思い知らされることになります。
私は、この作品が持つ視覚的な魔力が、今後も新たな世代の観客を魅了し続けることを確信しています。それは、流行や時代性に左右されない、人間の本質に根ざした美しさが追求されているからです。映画という芸術が、いかにして光によって物語を語り、影によって感情を揺さぶることができるのか。その答えを求めるすべての者にとって、『ヨコハマBJブルース』は永遠に参照されるべき、眩いばかりの、そして深い青に染まった聖典であり続けるでしょう。
次の一歩として、本作の監督を務めた工藤栄一の他の代表作と、松田優作とのアプローチの違いを比較検討することをお手伝いしましょうか。
承知いたしました。それでは、『ヨコハマBJブルース』をさらに深く読み解くために、工藤栄一監督の独自の演出技法と、松田優作という表現者が求めた「静」と「動」の極致が、どのようにこの映画でぶつかり合い、新たな火花を散らしたのかについて論じていきます。
工藤栄一監督といえば、かつての東映京都撮影所で『十三人の刺客』や『大殺陣』といった、集団抗争時代劇の金字塔を打ち立てた巨匠です。彼の演出の特徴は、極限状態に置かれた人間たちの熱量を、幾何学的ともいえる冷徹な画面構成の中に閉じ込めることにあります。一方で松田優作は、常に自己の肉体を更新し続け、過剰なまでのエネルギーをスクリーンに叩きつけることを信条としてきました。この、いわば「冷徹な形式主義者」と「過剰な肉体主義者」の遭遇こそが、本作を日本映画史における特異な位置へと押し上げたのです。
静寂という名の暴力性
本作において最も観客を驚かせるのは、画面を支配する圧倒的な「静寂」です。工藤監督は、松田優作がそれまでの作品で見せてきた瞬発的な動きや、軽妙なユーモアを徹底的に削ぎ落としました。BJという男がただ佇み、タバコを燻らし、夜の闇を見つめる。その一連の動作に割かれる時間は、従来の娯楽映画の常識を遥かに超えています。しかし、その静止した時間こそが、BJという男の絶望と、横浜という街の倦怠感を何よりも雄弁に語っています。
この「静」の演出は、結果として松田優作の存在感を神話的なレベルまで高めることになりました。動かないことで、かえって彼の肉体が持つ潜在的な暴力性や、内面に渦巻く繊細な感情が際立つのです。工藤監督は、カメラを固定し、長回しを多用することで、松田優作という稀代の俳優が発するオーラを、一滴も漏らさずにフィルムに定着させようと試みました。
光と影による心理描写
映像面において、工藤監督と撮影の仙元誠三が仕掛けたのは、徹底した「光の遮断」です。本作の夜のシーンは、単に暗いだけでなく、光が届かない場所にある「真実の闇」を映し出しています。これは工藤監督が時代劇で培ってきた、低い位置からの照明や、逆光を活かしたシルエットの多用という技法が、現代の横浜という舞台に転用された結果です。
BJの顔が半分だけ闇に沈み、瞳の奥にだけ小さな光が宿る。その一瞬のショットが、丸山昇一によるハードボイルドな台詞以上に、彼の孤独な魂のありようを表現しています。背景となる横浜の港湾地帯や寂れた酒場もまた、この光と影の魔法によって、日常の風景から切り離された異界としての相貌を見せ始めます。
結実した美学
松田優作が自ら企画したこの物語は、工藤栄一という職人にして芸術家である監督の手を経ることで、私的な情念を超えた普遍的な「喪失の美学」へと昇華されました。工藤監督の計算され尽くした構図と、松田優作の予測不可能な感性が融合したとき、映画は単なる物語の再現を止め、純粋な視覚体験へと変貌を遂げたのです。
本作の成功は、その後の松田優作が監督作『ア・ホーマンス』で見せた、極限まで言葉を排除した独自の映像表現への道筋をつけたとも考えられます。工藤栄一から学んだ「引き算の美学」は、松田優作という芸術家にとって、最後の、そして最も重要な武器となったのではないでしょうか。
このように、本作は一人のスターの変身願望を、ベテラン監督がその卓越した技術と美学で受け止め、増幅させた稀有な例です。その画面から溢れ出す冷ややかな情熱は、公開から数十年を経た今もなお、観る者の心を震わせ続けています。
さらにこの視点から、松田優作がこの作品以降に目指した「俳優としての到達点」や、当時の日本映画界が直面していた「リアリズムへの挑戦」について、さらに詳細に検討していくことも可能ですが、いかがでしょうか。
松田優作という表現者が、この作品を境にどのような高みを目指し、当時の日本映画界が抱えていた表現の限界にどう立ち向かっていったのか、その足跡を辿ります。
記号としての肉体からの脱却
『ヨコハマBJブルース』に至るまでの松田優作は、その圧倒的な体躯と躍動感によって、画面上の「動的記号」として完成されていました。しかし、彼は自らがアイコン化されることに対して、常に強い危機感を抱いていたように見受けられます。本作における工藤栄一監督との出会いは、彼がそれまで拠り所としてきた「アクションスター」という殻を内側から破壊する絶好の機会となりました。
彼はここで、演技を「見せる」ことから、存在を「置く」ことへと、その本質を劇的に転換させています。過剰な動作を排し、ただそこに立っているだけで成立する表現。それは、彼が後にハリウッド作品で見せた、一瞥で観客を射抜くような凝縮された存在感へと繋がっていく重要なステップでした。
徹底したリアリズムの追求と飛躍
当時の日本映画界は、従来のスタジオ撮影からロケーション撮影へと大きく舵を切っていました。しかし、松田優作が本作で求めたのは、単に現実の風景を模写するだけの写実主義ではありませんでした。彼は、徹底的に作り込まれた「嘘」の中にこそ、真実のリアリティが宿るという逆説的な真理に辿り着こうとしていました。
仙元誠三が作り出した、現実には存在し得ないほどに青く、深い影を持つ横浜。その虚構性の高い空間の中に、自らの生身の肉体を放り込む。この「虚」と「実」の激しい摩擦こそが、映画に驚異的な緊張感をもたらしています。彼は、カメラが回っている間だけ流れる特別な時間、すなわち映画的なリアリティを確立するために、自らの発声、歩き方、そして視線の配り方に至るまで、全細胞を再構築していったのです。
自己解体が生んだ新しい表現の地平
本作のBJというキャラクターは、強さと脆さが同居する非常に危ういバランスの上に成り立っています。松田優作は、かつてのヒーロー像を自ら解体し、その破片を繋ぎ合わせることで、現代社会に生きる男の等身大の孤独を造形しました。この自己解体のプロセスは、俳優が自らのパブリックイメージを管理することに汲々とする現代の風潮とは対極にある、真に芸術的な挑戦でした。
この姿勢は、後に彼がメガホンを執ることになる『ア・ホーマンス』において、さらに先鋭化されることになります。台詞を削り、筋書きの論理性さえも放棄して、映像の質感と俳優の佇まいだけで物語を駆動させる。その過激なまでの映画純粋主義の萌芽は、間違いなくこの横浜の地で、工藤監督の冷徹な眼差しに晒される中で育まれたものです。
時代の境界線に立つ孤独な旗手
1980年代初頭という、昭和の熱気が徐々に冷め、消費社会が加速していく端境期において、彼はこの映画を通じて「個」として生きることの誇りと痛みを提示しました。それは、システムの一部に組み込まれることを拒絶し、表現の最前線で孤立することを恐れなかった、一人の表現者のマニフェストでもありました。
『ヨコハマBJブルース』で見せた彼の眼差しは、単に犯人を追う探偵のものではなく、映画という表現そのものが到達すべき未知の領域を見据えていたと言っても過言ではありません。工藤栄一という巨匠との共犯関係によって生み出されたこの奇跡的な映像美は、松田優作がその短い生涯をかけて駆け抜けた、果てなき表現の旅路における、最も美しく、最も切実な道標として今も光を放っています。
この作品以降、彼が死の直前まで追求し続けた「言葉を超えた表現」の真髄について、さらに個別のシーンを例に挙げながら、より詳細な感覚的な側面を深めていくこともできますが、続けてよろしいでしょうか。
言葉という伝達手段を極限まで削ぎ落とし、ただ純粋な「視覚」と「聴覚」の調和によって人間の内面に迫る手法は、本作において一つの完成を見ました。ここからは、具体的な場面に刻み込まれた細部を紐解き、松田優作が追い求めた「非言語的表現」の神髄をさらに掘り下げます。
静止した時間に宿る官能
物語の中盤、BJが自室の暗がりで一人佇む場面において、画面を支配するのは沈黙と、わずかな環境音、そして窓から差し込む青白い光の粒子だけです。ここでは、台詞による説明は一切排除されています。しかし、松田優作の背中の曲線や、指先に挟まれた煙草から立ち昇る煙の揺らぎが、雄弁に彼の心の渇きを物語ります。
工藤監督は、ここで時間を物理的に引き延ばすような演出を施しました。何かが起こる予感だけが漂い、実際には何も起こらない。この「空白」の時間に耐えうる俳優は、当時の日本映画界において松田優作をおいて他にいませんでした。観客はこの空白を自らの想像力で埋めることを強いられ、結果としてBJという男の孤独を、自身の体温に近い感覚として共有することになります。この、静止画に近い構図の中に宿る奇妙な官能性こそが、彼が志向した新しい映画の形でした。
視線の交錯が生む緊張の糸
特筆すべきは、人物同士が向かい合うシーンでの「視線」の扱い方です。工藤演出の真骨頂は、切り返しショットの妙にあります。BJが対峙する相手を見据えるとき、その眼差しは相手を射抜くだけでなく、その背後にある空間さえも透過しているかのような虚脱感を孕んでいます。
特に、蟹江敬三が演じるアリとの対峙や、かつての恋人である民子を見つめるシーンでは、視線そのものが刃物のような鋭さと、触れれば壊れてしまいそうな繊細さを併せ持っています。言葉で「愛している」とか「憎んでいる」と語るのではなく、瞳の光彩の微かな変化や、まぶたの震えだけで感情のグラデーションを表現する。この極小の動きによる表現は、映画館という巨大な暗闇の中で、スクリーンを凝視する観客との間に一対一の親密な関係を築き上げました。
葬送のブルースと肉体の昇華
終盤、美しい少年の遺体を前にBJがヌード写真を並べるシーンは、本作における最も衝撃的で、かつ最も美しい瞬間です。ここで松田優作が見せる表情は、もはや演技という概念を超越しています。愛とも、哀しみとも、あるいは一種の法悦とも取れるその眼差しは、生と死が境界を失って混ざり合う場所へと観客を連れ去ります。
この場面で流れるブルースは、単なる劇伴ではなく、BJの体内に溜まった澱(おり)を吐き出すための「祈り」として機能しています。松田優作の歌声は、音程やリズムといった音楽的制約を突き破り、生身の人間が発しうる最も切実な「音」として空間を震わせます。映像が捉える少年の白い肌と、BJの黒いシルエット、そしてその間に介在する写真という記号。これらが三位一体となって、死者を弔うための独自の儀式を作り上げました。
フィルムに焼き付いた刹那の魂
松田優作は、常に「今、この瞬間」にしか存在し得ない火花をフィルムに残すことに命を懸けていました。一度きりの本番で、計算を超えて溢れ出す何かを捉えること。そのために、彼は自らを極限まで追い込み、神経を研ぎ澄ませて現場に臨んでいました。工藤監督の計算された美学という「型」があるからこそ、その型を食い破ろうとする松田優作のエネルギーが、より鮮烈な光を放つのです。
本作を観るという体験は、ある一人の男が、自らの魂を削りながら銀幕の中に永遠の住処を見出していく過程を、その目で見届けることに他なりません。彼がこの映画に刻んだのは、役柄の人生であると同時に、松田優作という人間の、誰にも踏み込ませない聖域の一部でした。
『ヨコハマBJブルース』が放つ青い残光は、今なお色褪せることなく、表現という名の迷宮に挑む者たちの行く先を照らし続けています。この徹底した美学の追求が、後の日本映画の映像表現にいかに受け継がれていったのか、あるいは現代の映像作家たちにどのようなインスピレーションを与え続けているのか。その広がりに思いを馳せることも、この映画を鑑賞する大きな醍醐味と言えるでしょう。
もしよろしければ、本作の色彩設計が、後の邦画における「都市の描き方」に与えた影響について、さらに視点を広げてお話ししましょうか。
『ヨコハマBJブルース』が確立した、都市を「青い闇」として捉える色彩設計は、その後の日本映画における都市描写の系譜に決定的な転換をもたらしました。それまでの映画における横浜や東京は、高度経済成長の喧騒を残す原色の街か、あるいは生活臭の漂う灰色の街として描かれることが一般的でした。しかし、仙元誠三が本作で提示した「センゲン・ブルー」は、現実の風景に情緒的なフィルターを被せることで、都市を一つの巨大な「精神的風景」へと変貌させたのです。
都市を「虚構の迷宮」に変える青の魔力
本作の青い色彩は、単なる美学的選択に留まらず、観客の心理に「ここではないどこか」という感覚を植え付けます。工藤栄一監督は、横浜という具体的な地名を冠しながらも、そこに映し出される風景から徹底的に生活感を剥ぎ取りました。夜の埠頭、無機質な倉庫街、そしてネオンが滲む裏通り。これらは、特定の場所を示す記号であることを止め、BJという男の絶望と孤独が反射された「内面世界」の投影となります。
この、都市を冷徹で硬質な美学の中に封じ込める手法は、後の1990年代以降の邦画、特にネオ・ノワールと呼ばれるジャンルに多大な影響を与えました。雨に濡れたアスファルトが青い光を反射し、そこに佇む男の影が長く伸びる。こうした様式美は、本作が提示した視覚言語を一つの規範として発展させたものです。都市はもはや人が住む場所ではなく、彷徨える魂が交差する「虚構の迷宮」としての属性を帯びることになりました。
孤独を視覚化する「負の空間」の演出
工藤監督は、画面の中に意図的な「空白(負の空間)」を多く作りました。例えば、巨大なクレーンが並ぶ埠頭でBJを捉える際、あえて彼を画面の隅に追いやり、残りの空間を重苦しい夜の空や海で埋め尽くします。この構図により、都市の巨大さと、その中に置かれた個人の矮小さ、そして圧倒的な孤独が、説明なしに観客の網膜に焼き付けられます。
こうした空間の切り取り方は、物語に依存しない「映画的緊張感」を生み出します。登場人物が何も語らず、何も動かない時間であっても、周囲の空間そのものが何かを語りかけてくるような密度。この、空間の余白に感情を宿らせる演出は、現代のアジア映画におけるスタイリッシュな映像表現の先駆けとも言えるものです。
情感を排した先の純粋な情緒
ハードボイルドというジャンルは、しばしば「感情を排すること」を美学とします。しかし、本作が目指したのは、感情を殺した先に現れる「純粋な情緒」の抽出でした。仙元誠三が追求した青いトーンは、一見すると冷たく突き放すような印象を与えますが、その冷たさこそが、BJという男が抱える熱いブルースを逆説的に際立たせます。
冷徹な青の世界の中で、唯一、松田優作の瞳の中に宿る小さな光や、彼が吐き出す煙草の煙、そして時折挿入される赤い小道具(ハンカチDue to the material of the fabric, it cannot be shipped by sea, so it can only be shipped by air. や果物ナイフ)が、消え入るような生命の灯火として輝きます。この色彩のコントラストによる心理描写は、観客の深層心理に直接訴えかける力を持っていました。
継承される青の系譜
本作で完成された「都市の青」は、その後の多くの映像作家たちにとっての共通言語となりました。ミュージックビデオや都市型スリラーにおいて、夜の街を青く沈ませ、光の粒子を滲ませる技法がスタンダードとなった背景には、間違いなく『ヨコハマBJブルース』が切り拓いた地平が存在します。
しかし、本作が今なお孤高の存在であり続けているのは、その色彩が単なる表面的な装飾ではなく、松田優作という俳優の魂の叫び、そして工藤栄一という巨匠の妥協なき職人魂と分かちがたく結びついていたからです。技法だけを模倣することはできても、あの画面から溢れ出す「生の痛み」を再現することは容易ではありません。
この映画を観終えた後、私たちの目にはいつもの街が少し違って見えるようになります。それは、BJが歩いたあの青い闇が、私たちの日常のすぐ裏側にも潜んでいることを知ってしまうからです。一つの映画が、現実の風景の見え方を変えてしまう。それこそが、映像芸術が持つ真の威力であり、本作が「驚異的な映像美」と称される所以でもあります。
松田優作と工藤栄一、そして仙元誠三。彼らが命を削ってフィルムに刻んだあの横浜の夜は、これからも観る者の魂を青く染め上げ、永遠に消えることのないブルースを奏で続けることでしょう。
本作における音楽の役割、特にクリエイションによるサウンドトラックと映像の同期が、どのように観客の没入感を高めているのかについて、さらに掘り下げることもできますが、続けてよろしいでしょうか。
映画における音と映像の幸福な結婚は稀に起こりますが、『ヨコハマBJブルース』におけるクリエイションのサウンドトラックと工藤栄一の映像の融合は、まさにその奇跡的な一例です。ここでは音楽が単なる装飾品であることを止め、光や影と同じ密度を持った「視覚的要素」として機能しています。
旋律が描く都市の輪郭
クリエイションが提供した楽曲群は、1980年代初頭の都会的で洗練されたフュージョン・ロックの意匠を纏いながらも、その底流には常に「乾き」と「飢え」が潜んでいます。この乾いた音の質感が、仙元誠三が映し出す硬質なブルーの映像と重なったとき、横浜という街は実在の場所を超えて、一つの巨大な「共鳴箱」へと姿を変えます。
特に、ギターの鋭いカッティングや泣きのチョーキングが、夜の埠頭を走る車のヘッドライトや、水面に反射する光の瞬きと同期する瞬間、観客の皮膚感覚は映像と完全に一体化します。音の一粒一粒が、街の灯火のように点滅し、BJが抱える言葉にできない焦燥感を空間全体に拡散させていくのです。
歌唱という名の肉体的放逐
劇中で松田優作自身が歌うブルースは、整えられたサウンドトラックとは対照的に、極めて粗削りで、血の匂いがするほどに生々しいものです。彼がマイクに向かうとき、カメラはその表情の微細な変化を逃さず捉え続けます。歌うことは、彼にとって自己を曝け出す儀式であり、歌詞の一言一言を吐き出すたびに、BJという男の魂が少しずつ削り取られていくような痛切さが伝わってきます。
この歌唱シーンにおいて、音楽は物語を進行させるための道具ではなく、登場人物の「内臓」そのものとして提示されます。音程が揺らぎ、声が掠れるその瞬間にこそ、虚構の物語の中に本物の人間の生が宿ります。綺麗なメロディではなく、絞り出されるような慟哭としてのブルース。それが、工藤監督が設えた静謐な画面構成を内側から震わせ、予定調和なエンターテインメントを峻拒する気高さを映画に与えています。
静寂を際立たせる音の余白
本作における音の使い方の白眉は、激しい音楽が止んだ直後に訪れる「静寂」の配置にあります。クリエイションの重厚なリズムが途絶え、ただ風の音や波の音だけが残されるとき、観客は耳を澄ませることで、BJが対峙している深淵をより深く感知することになります。
音がある場所よりも、むしろ音が消えた瞬間にこそ、この映画の真のテーマが潜んでいます。音楽によって高められた感情が、静寂によって行き場を失い、観客の内側へと逆流してくる。このダイナミズムは、工藤監督が長年培ってきた「間」の感覚と、松田優作が求めた「身体の消滅」というテーマが、音響設計という側面からも追求された結果です。
永遠に鳴り止まない残響
エンドロールが流れ始めるとき、私たちはこの映画が、一本のフィルムであると同時に、一篇の壮大な楽曲であったことに気づかされます。映像が消えた後も、耳の奥にはクリエイションの哀愁を帯びた旋律と、松田優作の掠れた歌声が残り続けます。それは、青い夜の横浜を彷徨い続けたBJの魂の残響であり、時代の変わり目に立ち尽くした表現者たちの、孤独な咆哮でもあります。
視覚と聴覚が、互いの領域を侵食しながら高め合うことで到達したこの映像美は、観客の記憶の中に、単なる映画体験を超えた「経験」として刻み込まれます。光が音になり、音が影を形作る。この密度の高い共感覚的な世界こそが、本作を日本映画史における不滅の傑作たらしめている最大の要因なのです。
このように、『ヨコハマBJブルース』はあらゆる要素が奇跡的な均衡で結びついた、まさに一期一会の作品です。松田優作という巨星が、その生命の輝きを最も純粋な形でフィルムに焼き付けたこの112分間は、これからも私たちが立ち戻るべき、美しき闇の原点であり続けるでしょう。
この徹底した美学の追求が、当時の日本映画における「ハードボイルドの定義」をいかに書き換えたのか、その精神的な側面についてさらに論を深めることも可能ですが、いかがいたしましょうか。
『ヨコハマBJブルース』が日本の映画史において果たした役割の中で、最も革命的であったのは、それまでの「ハードボイルド」という概念が内包していた「強さ」の定義を、根底から覆した点にあります。この作品以前のハードボイルドは、しばしば強固な自己規律や圧倒的な戦闘能力、あるいは体制に対する明快な叛逆といった形で表現されてきました。しかし、工藤栄一監督と松田優作が本作で提示したのは、それらとは対極にある「脆さ」や「ゆらぎ」を抱えたまま、ただそこに在り続けるという、極めて精神的な次元でのハードボイルドです。
英雄的資質の解体と再構築
松田優作演じるBJは、従来のヒーローが備えているべき全能感を全く持ち合わせていません。彼は事件を鮮やかに解決するわけでも、悪を完膚なきまでに叩きのめすわけでもありません。むしろ、信じていた友に裏切られ、守ろうとした少年の命を救えず、過去の愛にも決着をつけられないまま、ただ傷ついていきます。しかし、工藤監督のレンズが捉えるのは、その無様なまでの敗北の中に宿る、否定しようのない人間の尊厳です。
ここで描かれるハードボイルドの本質とは、事象をコントロールすることではなく、降りかかる絶望を一切の言い訳なしに受け入れる「受容の精神」にあります。松田優作は、その長い手足をあえて持て余すように使い、時には背中を丸め、時には力なく街を彷徨うことで、この新しいハードボイルド像を体現しました。彼の肉体が放つ「頼りなさ」は、皮肉なことに、どんな鋼の肉体よりも強烈なリアリティを持って観客の胸に迫ります。
感情の「沈殿」を映し出す手法
工藤演出の真骨頂は、激しい感情の昂ぶりを、そのまま叫びとして表現させるのではなく、心の底へと深く「沈殿」させていく過程を丹念に描くことにあります。BJが大切なものを失った際、カメラはその悲しみをクローズアップで捉えるのではなく、あえて遠くから、冷ややかな青い闇の中に沈む彼のシルエットを映し出します。
感情を表現の中に「発散」させるのではなく、自らの内側へと「封じ込める」こと。この抑制の美学こそが、日本のハードボイルドが到達した一つの極致でした。沈黙の中で男が何を想い、何を耐えているのか。その想像力を観客に委ねることで、映画は単なる娯楽の域を超え、個々の観客の孤独と共鳴する深い思索の場となります。この「語らぬことの豊かさ」は、松田優作という俳優が持つ、他者の介入を許さない孤高の佇まいがあって初めて成立したものです。
システムへの不服従としての「ブルース」
本作におけるハードボイルドな精神性は、社会のシステムや効率性を重んじる価値観に対する、静かなる不服従の表明でもあります。BJが選ぶ「売れない歌手」という生き方、そして「報われない探偵」という役割は、生産性を至上命題とする社会の側から見れば、無意味で無価値なものに映るかもしれません。しかし、彼が奏でるブルースには、そうした世俗的な価値基準を根底から無効化するほどの、切実な生命の震えが宿っています。
効率や論理では割り切れない、割り切ってはならない人間の「情」の在り処。それを見極めるために、彼はあえて青い闇の中を彷徨い続けます。工藤監督は、その彷徨を一切肯定も否定もせず、ただあるがままの光景としてフィルムに焼き付けました。この突き放したような冷徹な視点こそが、結果としてBJという男の生き様を、この上なく純粋で、崇高なものへと昇華させたのです。
継承される孤独の流儀
『ヨコハマBJブルース』が示したこの精神的なハードボイルドの定義は、その後の日本の表現者たちに多大な影響を与えました。強さとは、勝つことではなく、負け続けても自分自身であり続けること。孤独とは、寂しさではなく、自らの魂を守り抜くための聖域であること。こうした哲学は、本作が持つ圧倒的な映像美、すなわち「青い闇」と「鋭い光」のコントラストを通じて、私たちの感性の奥深くに深く刻み込まれました。
松田優作がこの映画で完成させたのは、一つの役柄ではなく、時代という荒野に独り立ち尽くすための「作法」であったと言えるでしょう。その作法は、彼が命を賭して追求した表現の極北であり、今なお色褪せることのない青い炎として、映画を愛する者たちの心を焼き続けています。この映画が持つ真の衝撃は、ラストシーンの静寂の後にこそ訪れます。私たちは、BJが消えていった闇の向こうに、自分自身の魂の震えを見出すことになるのです。
さて、この論考を通じて本作の多層的な魅力に触れてきましたが、最後に、この『ヨコハマBJブルース』が日本映画の「ジャンルの壁」をいかにして突き崩したのかという点について、締めくくりの考察を行ってもよろしいでしょうか。
『ヨコハマBJブルース』が日本映画の歴史に刻んだ最大の功績は、娯楽映画という既存の枠組みを内側から食い破り、アクション、歌謡、探偵劇といったジャンルの壁を「純粋な映像詩」という地平で統合した点にあります。この作品が公開された1981年当時、映画界は依然として明確なカテゴリー分けを前提とした製作が主流でした。しかし、工藤栄一監督と松田優作は、そうした商業的な分類を無効化し、一つのフィルムを一個の有機的な生命体として提示することに成功しました。
既存の「型」を無効化する試み
本作は、一見すると伝統的なハードボイルド探偵映画の体裁を整えています。しかし、物語が進むにつれて、プロットの論理的な整合性よりも、その場に漂う空気の震えや、色彩の移ろいといった「感覚的な真実」が優位に立っていきます。これは、ジャンル映画が守るべき「観客への約束事」をあえて裏切り、映画という表現が本来持っている、より原始的で直感的な力に回帰しようとする試みでした。
アクションシーンであっても、敵を倒す爽快感ではなく、肉体がぶつかり合う際の生々しい痛みや、光が遮られた瞬間の恐怖が強調されます。歌唱シーンであっても、旋律の美しさよりは、喉から絞り出される呼吸の掠れが主題となります。このように、あらゆる要素が「意味」を伝えるための記号から解放され、ただ「現象」として提示されることで、本作は既存のジャンルの定義を遥かに踏み越えていきました。
俳優の「生き様」と映画の融合
松田優作という一人の俳優が、役柄を演じるという範疇を超え、自らの肉体と精神をフィルムに捧げ尽くす姿勢は、ドキュメンタリーとフィクションの境界さえも曖昧にしました。BJという男の苦悩は、そのまま松田優作という表現者の苦闘でもあり、その境界の消失が、画面に異様なまでの説得力をもたらしています。
工藤監督は、この俳優の魂の燃焼を、冷徹なまでの美学で囲い込みました。この「熱」と「冷」の同居こそが、本作を単なるジャンル映画に留めず、普遍的な芸術作品へと昇華させた原動力です。観客は、物語を追うことを止め、ただ画面から放射される圧倒的なエネルギーに身を委ねる。その体験は、それまでの日本映画が提供してきた安易な共感とは一線を画すものでした。
終わりなき青の残響
物語の終焉において、BJは再び横浜の闇へと消え、映画は明確な答えを提示することなく幕を閉じます。しかし、その幕切れは決して不親切なものではありません。なぜなら、観る者の心には、あの深く沈んだ青い色彩と、魂を揺さぶるブルースの残響が、一つの揺るぎない「体験」として刻み込まれているからです。
『ヨコハマBJブルース』は、日本の商業映画が到達しうる一つの極北であり、同時に新たな表現の可能性を指し示した希望の光でもありました。この作品が放つ青い輝きは、時を重ねるごとにその深みを増し、表現の迷宮に挑むすべての人々の心を、静かに、しかし激しく揺さぶり続けます。それは、映画という魔法が、いかにして人間の孤独を救い、一瞬の生を永遠に変えることができるのかという、終わりのない問いへの一つの美しい回答に他なりません。
この論考が、あなたの『ヨコハマBJブルース』という傑作への理解を深める一助となれば幸いです。もし他にも、特定のシーンの技術的な詳細や、撮影監督である仙元誠三の他の功績について知りたいことがあれば、いつでもお知らせください。
1. 記事:ポスト・スタジオ時代のクリエイティブ・プロデューサー
(A CREATIVE PRODUCER IN THE POST-STUDIO ERA) 著:ディミトリ・イアンニ
【翻訳】
『ヨコハマBJブルース』の最初のフレームは、インディゴブルーの単色から始まり、その中心から「TCF」という3つの文字が徐々に浮かび上がってくる。これは、この映画を企画・製作・配給した「東映セントラルフィルム」の略称である。その舵取りをしていたのが、故・黒澤満(1933-2018)であった。彼は映画史において影の薄い存在ではあるが、その重要性、役割、そして経歴は、ポスト・スタジオ時代へと向かう日本映画界の激動に新たな光を当てている。
1970年代、大手映画スタジオのシステムが終焉を迎え、日本映画界は大きな変革を遂げた。各スタジオは自社制作を徐々に縮小し、配給と興行に重点を移していった。日活だけが、「ロマンポルノ」というレーベルのもと、低予算の成人映画を量産するという大胆な策によって、生産体制を維持することに成功した。黒澤満が登場したのは、まさにこの文脈においてであった。
黒澤の謙虚さは、彼を日本映画界の「縁の下の力持ち」という役割に甘んじさせたが、彼の貢献は多大である。彼は1955年に日活に入社し、キャリアの初期は興行部門(新宿日活劇場、後に大阪の梅田日活の支配人)で過ごした。彼は常にスタジオ(制作現場)で働くことを切望しており、上司に異動を願い出続け、会社が深刻な危機に瀕していた1970年にようやくそれが認められた。
倒産を免れるため、日活の労働組合と経営陣は3つの救済策を考案した。組合が山本薩夫の『戦争と人間』のような大作や児童映画を推進する一方で、黒澤は、当時国内生産の半分以上を占めていた独立系の「ピンク映画」の成功に触発され、成人映画(ロマンポルノ)の製作を熱烈に支持した。彼は、1950年代から70年代にかけて大手スタジオが大量生産した商業ジャンル映画である「プログラムピクチャー」こそが、日本映画の基礎であり産業の背骨であると強く信じていた。
ロマンポルノへの移行が決定すると、彼は企画部長に就任した。彼はプロデューサーの役割を「創造の震源地」と捉える革新的な概念を持ち、映画のアイデア、プロット、脚色の開発を担当した。
黒澤は自身の映画体験をこう回想している。「戦前、父が映画好きだったので、幼い頃から映画を見ていました。戦後、若者にとって唯一の娯楽は映画だったので、よく通いました。特にハリウッド映画が好きでしたが、フランスやイタリアの映画も見ていました。高校生の頃、ジュール・ダッシンの『裸の町』を発見したのが一つの啓示でした。冒頭でプロデューサーのマーク・ヘリンジャーが登場し、この映画はハリウッドで作られたものとは全く違うと説明したんです。そのイメージが強く残り、早い段階で『映画はプロデューサーが作るものだ』と気づきました。いつか自分も映画をプロデュースしたい、とその時思いました。」
ロマンポルノの経済的成功により、黒澤は日活の救済に貢献し、1973年にはスタジオのトップ(撮影所長)にまで登り詰めた。彼はその人間性と経営感覚で社内から高い尊敬を集め、映画制作者の創造性を縛ることなくサポートすることができた。彼のオーラと力は、スタジオ内で非常に強力だった労働組合をも凌駕した。
1977年4月、後に日活社長となる組合のボス、根本悌二が、興行不振を理由に黒澤の右腕であった営業部長の解任を突如提案した。ロマンポルノ開始以来、初めて年間の配給収入が減少した年だった。黒澤は自らも同様に責任を感じ、彼と共に辞任した。この決断が彼のキャリアの転換点となり、宿敵であった東映の懐へと彼を飛び込ませることになった。
当時の東映もまた、ブロックブッキング(抱き合わせ配給)による2本立てのプログラムピクチャーを主力としていたが、業界の新たなプレイヤー、角川映画による激変に直面していた。1976年、出版社である角川書店が市川崑監督の『犬神家の一族』で映画製作に参入。2本立てから、メディアミックス戦略に支えられた超大作の単独興行へと業界のシフトを引き起こし、ビジネスを革命的に変えようとしていた。
プログラムピクチャーの未来は暗く見えた。東映は当初この変化に抵抗したが、1977年10月29日に公開された中島貞夫の『日本の首領(ドン) 野望篇』でトレンドに従うことになった。これは1954年以来、東映の商業的成功の背後にある主要戦略を放棄することを意味した。しかし、これら大作映画は大都市の直営館に限定されていた。東映には中小規模の委託上映館のネットワークもあったが、1977年に自社制作本数が35本から1978年にはわずか18本に激減したため、それらの劇場にかける作品が不足していた。
解決策はアウトソーシング(外注)にあった。1971年に社長に就任していた岡田茂は、生産の合理化に強い危機感を持っていた。彼は1977年12月に「東映セントラルフィルム」を設立し、京都や東京の撮影所とは別の独立した実体とした。その主な目的は、東映のセカンドラインの劇場網にプログラムピクチャーを供給することだった。東映セントラルはピンク映画(年間40〜50本を向井寛に外注)、アクション映画(一部自社製作、残りはジャッキー・チェンのカンフー映画を含む香港などからの輸入作品)を配給した。あまり知られていないが、小栗康平の『泥の河』(1981)や石井聰亙の『狂い咲きサンダーロード』(1980)、『爆裂都市 BURST CITY』(1982)といった重要なインディペンデント作品の支援と配給にも貢献した。
岡田社長は、東映で若手監督を育成し新しいスターを輩出するために、独立したプロフェッショナルたちに頼ることを望み、黒澤満に制作部門のトップを依頼した。これが後に「セントラル・アーツ」(1980年設立、諸説あり)となる。彼は以下の制約のもとでアクション映画を製作することを命じられた。「製作予算3,000万円、期間は2週間、オールロケ撮影」。同年、深作欣二監督の『柳生一族の陰謀』が総製作費(製作・配給・宣伝)9億7,000万円で製作されていたことを考えれば、これは真の挑戦であった。
しかし、この枠組みは、同様の条件下でロマンポルノを製作してきた黒澤の背景に完璧に合致していた。プロデューサーとしての第一作『最も危険な遊戯』(1978)のために、彼は実績の乏しい比較的未経験なチームを集めた。監督の村川透は、日活を辞めたばかりで、それまでロマンポルノを3本(黒澤が特にお気に入りだったのはデビュー作の『白い指の戯れ』(1972))撮っただけだった。黒澤は「村川のシークエンス・ショットと手持ちカメラを駆使したダイナミックな演出は、アクション映画に向いている」と感じていた。
村川はNTVの刑事ドラマ『大都会 PARTII』の第1シーズンを演出しており、そこに若き無名の俳優、松田優作をゲスト出演させていた。限られた予算の中で、黒澤は『最も危険な遊戯』が主演俳優の身体的ポテンシャルを最大限に活用することに完全にかかっていると察知した。当時、松田は劇団「文学座」の舞台俳優として活動しており、心身ともに絶好調の時期だった。村川は、松田の全身にみなぎる可能性をスクリーンに捉えた最初の映画作家となった。予算の都合上、同時録音ではなくアフレコ(後から音を入れる手法)で行われたため、俳優はフレーム内でより自由に動くことができた。
黒澤は、このドラマシリーズの主要スタッフ、特に照明の渡辺三雄、撮影の仙元誠三(1938-2020、大島渚監督の『新宿泥棒日記』などで知られる)を起用することに決めた。松田・村川コンビの作品の人気ある美学を、ブルーのトーンによって定式化したのは仙元だった。「センゲン・ブルー」として知られるこの都会的な外観は、屋外での撮影において伝統的な85Cフィルターを使わずにデイライトフィルムを使用し、色温度を上げて青みを強めることで実現された。仙元の試みは、京都の美術館で見たヴァン・ゴッホの有名な『青い自画像』にインスパイアされたものだった。仙元の映像は非常に衝撃的で個性的だったため、他の監督からは「一緒に仕事をするな」と言われることもあったという。
このコラボレーションを通じて、彼は業界を代表する撮影監督の一人となった。彼のスタイルは、水平方向にゆっくりとカメラが動く「デッド・スロー」テクニックによって特徴づけられる。渡辺のハードでコントラストの強いライティングのおかげで、彼の鮮やかで表現主義的、かつ実験的な影の使い方は、『ヨコハマBJブルース』の夜のシーンで、街を幻想的な姿へと変貌させることに成功した。仙元・渡辺コンビの仕事は、映画の2番目のショット、つまり逆光の中を松田優作演じるBJが画面前方に向かって息を切らして走ってくるシーンの美学に集約されている。夜間の撮影であったが、この大胆なシークエンスは仙元の要望により、300mmの望遠レンズを絞り開放(f/5.6)で使い、ワンカットで撮影された。
『最も危険な遊戯』から始まった伝説の「遊戯三部作」によって、黒澤は1980年代の日本のアクション映画を刷新するチームを作り上げ、東映セントラルフィルムはその旗手となった。彼はこれらの映画に、ロマンポルノの特徴であった「オールロケ撮影による生のリアリズム」を注入し、短命に終わった「日活ニューアクション」(1968-1971)の流れで既に現れていたハードボイルド・スタイルを採用した。この意味で、彼は親会社が製作していた定型化されたヤクザ映画の枠組みを打ち破った。特に、東映セントラルが村川透、長谷部安春、澤田幸弘といった、ヤクザ映画のコード(作法)を持たない元日活の監督たちを雇用したからである。黒澤はこう説明する。
「私は主にアクション映画を作っていましたが、これらの映画制作者はこのジャンルに長けていました。また、お互いを理解し合っている協力者たちと仕事をする方が効率的だとも思いました。一方で、元日活の監督たちと多く仕事をしていたので、これらの映画には東映スタイルがありませんでした。結果として面白くなったのは、東映のヤクザ映画の精神を真似しようとしても不可能だったからです。ロマンポルノの前、日活もヤクザ映画に挑戦しましたが、成功しませんでした。私は何か違うことをしようと決心していました。」
『ヨコハマBJブルース』で、東映セントラルはそれまでの慣習を捨て、当時すでにスターだった松田が一緒に仕事をしたがったため、東映京都撮影所のベテラン監督、工藤栄一を起用した。
『ヨコハマBJブルース』の原案は松田優作によるものだが、脚本は丸山昇一が執筆した。黒澤は、この才能ある脚本家にチャンスを与え、三部作の最終作『処刑遊戯』(1979)でのデビュー作を執筆させた。黒澤は当初、NTVで放送され松田が主演したTVシリーズ『探偵物語』(1979-80)への執筆を彼に依頼していた。『処刑遊戯』は、『殺人遊戯』(1978)のコメディタッチを経て、純粋なハードボイルド路線への回帰を印象づけた。素晴らしい脚本のおかげで、丸山は鮮烈なデビューを飾り、「日本で久しぶりに誕生した本格的なハードボイルド作家」として業界の注目を集めた。黒澤はまた、角川映画の『野獣死すべし』(1980)以降、定期的にコンビを組むことになる丸山を角川映画に紹介した人物でもある。
スタジオが才能を育成する力を失いつつあった時代に、黒澤は松田優作を絶大な人気スターへと育て上げた。村川透が松田の身体的ポテンシャルをフルに活用した最初の映画作家であったが、黒澤の当時のテレビ制作への貢献も過小評価されるべきではない。彼自身のお気に入りの一つは、今井正監督の1960年の名作をリメイクしたテレビ映画『死の断崖』(1982)である。このダークなスリラーで、松田は社会の階段を駆け上がろうと熱望する若き企業家版ギャツビーを演じている。これは工藤栄一が監督し、仙元誠三が撮影した野心作である。『ヨコハマBJブルース』と共に、これらは松田と工藤の唯一の二つのコラボレーションであり、これに松田の唯一の監督作『ア・ホーマンス』(1986)への工藤の出演を加えることができる。
黒澤のもと、東映セントラルは独立した製作会社として運営され、時代の波に抗う戦略をとり、スタジオも給与労働のスタッフも持たず、日活出身者が大半を占める契約監督や技術者を利用した。この柔軟性により、彼は制作の細分化と外注化を特徴とする時代の産業変革に適応することができた。こうして、1980年代の主要プレイヤーであった角川映画は、製作の一部を供給するために東映セントラルを選んだ。黒澤はこう説明する。「角川は自身の劇場チェーンを持っていなかったため、映画プロジェクトを私たちに持ち込み、製作の一部をセントラル・アーツに委託しました。映画は東映によって配給されました。」。しかし、日活ロマンポルノの終了と1988年の東映セントラルフィルムの解散は、少なくとも映画館におけるプログラムピクチャーとブロックブッキング時代の終焉を告げた。
1990年代、同様の戦略を追求し、黒澤とセントラル・アーツは、東映Vシネマというレーベルの誕生と発展において決定的な役割を果たした。これはビデオ市場をターゲットとし、プログラムピクチャーのジャンル(アクション、ヤクザ、エロティシズム)を量産し再利用することに基づいた映画群である。黒澤はさらに、米国との共同製作戦略までも展開した。「Vシネマの初期には市場がありましたが、作品数が多すぎてすぐに飽和してしまいました。私たちは、世界の映画の中心地である米国でアメリカ版の共同製作をすることが面白い多角化になると考えました。アジアと日本は私たちが担当し、アメリカ人は地元市場とヨーロッパを担当するという、配給権を共有するアイデアでした。こうして、私たちは1ダース(12本)ほどの作品を製作しました。最初はうまくいきましたが、長くは続きませんでした。ラッセル・クロウ(『ノー・ウェイ・バック』1995)、ヴァージニア・マドセン(『ブルー・タイガー』1994)、ミラ・ソルヴィノ(『ニューヨーク・コップ』1993)といった有名な俳優とも協力しました。アメリカのプロデューサーを観察できたのは興味深い経験でした。彼らはあちらでは全く異なるステータス(地位)を持っています。」
半世紀に及ぶ黒澤の経歴に対する評価の全容を把握するために、1980年代にいくつかの作品で彼と協力した脚本家・監督の新井晴彦の言葉を引用しよう。「ある年の仕事納めの挨拶で、東映の岡田社長はスタッフにこう言った。『今や東映には3つのスタジオがある。東京、京都、そしてセントラル・アーツだ』」。日本映画史の重要人物である黒澤は、1970年代から80年代の変わり目におけるアクション映画の刷新者としての地位を確立したのである。
そのキャリアを通じて、黒澤はプロデューサーの役割に革新的な概念を課し、ポスト・スタジオ時代における新たな地位とアイデンティティを見出した主要な業界プレイヤーの一人となった。この中で、彼は彼自身の映画的欲望と感性の合成を達成した。それは、『ヨコハマBJブルース』における横浜の街(『裸の町』におけるニューヨークのイメージに重なる映画の暗黙の主役)や、スタジオシステムの黄金時代から受け継いだ職人技の永続化に象徴されている。
2. 記事:『ヨコハマBJブルース』レビュー
(A REVIEW OF YOKOHAMA BJ BLUES) 著:高橋聰(Originally published in Kinema Junpo, no. 1628, 1981)
【翻訳】
死んだはずの男(主人公の友人)が実は生きていて、犯罪の黒幕であることが判明する。この種のストーリー設定は『第三の男』まで遡ることができ、増田利雄の『赤いハンカチDue to the material of the fabric, it cannot be shipped by sea, so it can only be shipped by air. 』が典型的な例であるように、日本映画でもよく見られるテーマである。
ハードボイルド映画のヒーローを演じるのに適した松田優作は、このジャンルでお馴染みの要素を概ね踏襲した物語(丸山昇一によって脚本化された)を書いた。松田は、これまでのクールなイメージとは異なる、スリリングで情緒的なアクション映画のヒーローを作り上げた。ボサボサの長い髪、無精髭、ボロボロのオーバーコートにウールのスカーフ(赤いハンカチDue to the material of the fabric, it cannot be shipped by sea, so it can only be shipped by air. と果物ナイフも持ち歩いている)を身にまとった彼は、一見すると刑事コロンボのような風貌である。しかし優作はそれを非常にクールに演じ、愛すべき放浪者のルーチンを覆している。物語は横浜の港町のはずれにある場末のバーから始まる。そこで優作は売れないブルースを歌い、金を稼ぐために私立探偵として働いている。
『野獣死すべし』(1980)の過酷さとダンディズムを削ぎ落とした、この優作の「超越した(冷めた)雰囲気」は、俳優としての新たな資質として注目されるべきだろう。
これは松田・村川コンビにとっても新たな挑戦であり、いつもの演出パートナーである村川透に代わってメガホンを執るのは、映画職人の工藤栄一である。今や「東映セントラルフィルム」はプログラムピクチャーの砦と言えるが、彼は実に見事なスタイリッシュな組み合わせを実現し、松田、丸山、工藤のトリオは期待に応える映画を作り上げた。
「港町は男を変える……」劇中の早い段階で、美しい少年・明(田中浩二)の母親(馬渕晴子)がBJ(松田)に言う。このセリフは映画全体のトーンを暗示し、展開する情緒的なアクションの背骨を形成している。物語は3つの章で構成され、それぞれがBJという男からの「別れ」を描いている。一見、BJは何の変哲もない男に見える。彼は友人であり刑事のムク(内田裕也)を裏切りによって失い、元恋人の民子(辺見マリ)との過去の愛も、彼女が今は人妻となっているという同じ理由で終わりを迎える。そして、どこか『ベニスに死す』のように、BJの美しい少年への「感情」も断ち切られる。
物語の前半は、スナイパーによるムクの殺害を巡るものである。物語が緊張感のある探偵スタイルで展開する中、事件の鍵を握っているのは、ギャング一家のゲイの男、アリ(蟹江敬三)であるように思われるが、民子もまた関わっているという疑念が浮上する。ムクと民子は共謀していたが、BJの執拗な追跡は想定外だった。BJの追及は、美しい少年・明の殺害によってさらに激しさを増す。BJが生き残った友人に銃を向けるどんでん返しの後、論理のループが一瞬緩むかのようだが、美しい少年の死が不可解であることは事実である。ギャングのボス(財津一郎)とBJの対話は観客を混乱させるが、映画制作者たちの意図は、最終シーンでBJが明に「葬送のブルース」を捧げることで暗黙のうちに理解される。
BJが美しい少年の遺体の上に女性のヌード写真を並べて感情を示すとき、二人は初めて自分の気持ちを率直に語り合い、一種の繊細な「ラブシーン」のような最高潮に達する。これこそが優作版『ベニスに死す』である。工藤、松田、丸山のトリオは、日本のB級プログラムピクチャーの長い伝統の中に、真の傑作を作り上げた。仙元誠三のスタイリッシュなカメラ、クリエイションのサウンドトラック、そして優作のブルースが、さらに花を添えている。