1964年東京オリンピック(1964ねんとうきょうおりんぴっく)は、1964年(昭和39年)10月10日から10月24日までの15日間、日本の東京都で開かれた第18回夏季オリンピック[1]。東京オリンピック、東京五輪、東京1964(Tokyo 1964)と呼称される。大会後には同一都市では初となるパラリンピックも開催(第13回国際Please pay attention to the local shipping fee in Japan and confirm before placing a bid. ストーク・マンデビル競技大会として開催)された。
アジア初および有色人種国家初のオリンピックでもある。また、1952年のヘルシンキ(フィンランド)、1960年のローマ(イタリア)に続いて第二次世界大戦の旧枢軸国の首都で開催されたオリンピックである。
大会開催までの経緯
開催地決定を報じた読売新聞(1959年5月27日付)
1940年(昭和15年)の夏季大会の開催権[注釈 1] を返上した東京は、第二次世界大戦終結の9年後の1954年(昭和29年)に1960年(昭和35年)夏季大会開催地に立候補した[2]。しかし、翌1955年(昭和30年)の第50次IOC総会における投票でローマに敗れた。
次に1964年(昭和39年)夏季大会開催地に立候補し、1959年(昭和34年)5月26日に西ドイツのミュンヘンにて開催された第55次IOC総会において欧米の3都市を破り開催地に選出された。
得票数は東京が半数を超える34票、アメリカ合衆国のデトロイトが10票、オーストリアのウィーンが9票、ベルギーのブリュッセルが5票だった。特に、総会での立候補趣意演説を行なった平沢和重(外交官)や、中南米諸国の支持を集めるために奔走した日系アメリカ人の実業家、フレッド・イサム・ワダ(和田勇)、当時都議であった北島義彦、「日本レスリングの父」といわれた八田一朗らの功績が大きかった。和田は育った御坊市で名誉市民第1号となっている。
1957年(昭和32年)当時、日本水泳連盟会長を務め東京招致を主導していた田畑政治は、オリンピック招致費用が2013年現在の価格に換算して約1200億円かかることを懸念していた岸信介首相へ観光収入も見込めると直談判した[3]。
1964年夏季オリンピック 開催地投票
都市 国 投票数
東京 日本の旗 日本 34
デトロイト アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 10
ウィーン オーストリア 9
ブリュッセル ベルギーの旗 ベルギー 5
開催が決定した日本では「東京オリンピック組織委員会」(会長:津島寿一、事務総長:田畑政治)が組織され、国家予算として国立競技場をはじめとした施設整備に約164億円、大会運営費94億円、選手強化費用23億円を計上した国家プロジェクトとなった[注釈 2]。
開催にあたり、組織委員会は巨大な東京オリンピック公式ポスターを都市部に設置、デザインは亀倉雄策が手掛けた。
組織委員会では、津島と田畑が第4回アジア大会参加問題で1962年10月に引責辞任。後任に安川第五郎が組織委員会会長、与謝野秀が事務総長となった[4][5]。政府側でも、オリンピック担当国務大臣を設け川島正次郎が就き、1964年7月第3次池田内閣で河野一郎が就任した。
実施競技と日程
各競技の詳細については、それぞれの競技のリンク先を参照のこと。
競技名 / 日付(10月) 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24
開会式
陸上競技
競泳競技
飛込競技
水球
体操
柔道
レスリング
自転車競技
バレーボール
バスケットボール
サッカー
ボクシング
ボート
セーリング
カヌー
フェンシング
ウエイトリフティング
ホッケー
近代五種競技
馬術
射撃
閉会式
公開競技
男子野球
デモンストレーション
武道
ハイライト
開会式で整列する各国競技団
マラソンで先頭を走るアベベ(甲州街道)
甲州街道上り、味の素スタジアム。1964年東京オリンピックマラソン折り返し地点。調布市
甲州街道下り、小金井街道入口交差点。1964年東京オリンピック50 km競歩折り返し点。府中市緑町
閉会式
10月10日
開会式
→詳細は「1964年東京オリンピックの開会式」を参照
10月11日
重量挙げバンタム級で一ノ関史郎が銅メダル獲得。日本勢初のメダル。
10月12日
重量挙げフェザー級で三宅義信が優勝。
10月13日
水泳競技男子100m自由形で、ドン・ショランダーが優勝。
10月14日
水泳競技女子100m自由形で、ドーン・フレーザー※Laser related products (import and export documents required), so we cannot assist in purchasing. が三連覇。
陸上競技男子10000メートル競走で、伏兵ミルズが優勝[注釈 3]。
レスリング、フリースタイルで吉田義勝、渡辺長武、上武洋次郎が優勝。
10月15日
陸上競技、男子100mでボブ・ヘイズが優勝。
10月16日
陸上競技、男子800mでピーター・スネルが二連覇を達成。
10月17日
陸上競技、棒高跳びで9時間半の熱闘の末、ハンセンが優勝。
10月18日
水泳競技で米国勢が活躍。ドン・ショランダーが金メダル4個。
水泳競技で日本勢は最後の種目で銅メダル獲得。
10月19日
レスリング、グレコローマンで市川政光、花原勉が優勝。フリースタイルと合わせて5個の金メダル獲得。
10月20日
柔道軽量級で中谷雄英優勝。
体操男子は、団体で金、個人総合で金・銀。体操女子も団体で銅メダル。女子個人総合でベラ・チャスラフスカが優勝。
10月21日
陸上競技マラソンでアベベの優勝、史上初の連覇。円谷幸吉が銅メダル。
柔道中量級で岡野功優勝。
10月22日
体操男子は、つり輪で早田卓次が金メダル。
柔道重量級で猪熊功が優勝。日本に3個目の金メダル。
10月23日
女子バレーボールで日本がソ連を破り優勝。男子は銅メダル。
ボクシングのバンタム級で桜井孝雄が初の金メダル。ヘビー級はジョー・フレージャーが優勝。
体操女子は、平均台でベラ・チャスラフスカが優勝。3個目の金メダル獲得。
体操男子は、跳馬で山下治広が金、平行棒で遠藤幸雄が金、鶴見修治が銀。遠藤が団体・個人と合わせて3個目の金メダル獲得。
柔道無差別級でオランダのアントン・ヘーシンクに神永敗れる。
10月24日
閉会式
→詳細は「1964年東京オリンピックの閉会式」を参照
会期選定の議論
東京が1964年夏季オリンピックの開催権を獲得した1959年の時点では、日本側の準備委員会は会期について、過去の気象データで晴天が多い時期である、7月25日~8月9日と10月17日~11月1日の2案を提案した。しかし、その後の検討では、5~6月案が浮上した。9月ごろには、日本に台風が上陸しやすく、1959年の伊勢湾台風で大きな被害が発生したこと。東京で開催された1958年アジア競技大会の成功が、5~6月の日本の初夏の爽やかな気候も一因だったことが理由である。東京オリンピック組織委員会は、1960年2月にサンフランシスコで開催された第56回IOC総会で、5~6月案を追加した会期案を検討中であると明らかにした。
1960年2月に組織委員会は、下部機関の競技特別委員会に会期を研究する小委員会を設けた。小委員会には、各競技団体の代表、気象・海象・生理・衛生の専門家が参加した。春(5、6月)、夏(7、8月)、秋(10月)の3案のうち、夏は湿度が高いことから、最初に除外された。外国選手は、日本の夏の湿度は、欧米では全く経験できないので、最も忌避していた。5月案と10月案には、一長一短があった。気象データでは、雨の出現確率、晴または曇の出現平均確率で見れば、10月のほうがやや有利だが、台風の被害は9月に集中しやすい。台風によって日本のどこかに大きな被害があった直後に、莫大な経費を必要とするオリンピックを開催することは、国民的な感情として許されるかどうか。10月に会期が決まり8~9月に台風があった場合、台風の時期は各国の選手や用具が日本へ向け海・空路による輸送の途上にあたり、この輸送が円滑に行くのか。ヨット、ボートが到着後、台風による被害を完全に防止できるのか。台風後は必ず伝染病がまん延しているなどの懸念が指摘された。
東京オリンピック関連道路の整備は、用地の買収に隘路があり、会期が遅いほど都合がよいので、関係者は10月案を希望した。日本体育協会の選手強化対策本部は、「特殊環境が選手の運動に一般的に悪い影響を及ぼし、記録の上での成果が多く期待できない」「伝染病に弱い外国選手、観光客に不測の事態を発生する恐れがある」として、夏は除外されるべきだとした。小委員会は、1960年4月28日に総務委員会を経て組織委員会に答申し、5月23日~6月7日、10月3~18日の2案を提示した。総務委員会では、台風中の輸送を考慮し、10月18日~11月1日が適当であるとの意見書が附された。
諸外国のオリンピック関係者では、会期について多様な意見があった。ヨーロッパ諸国の関係者からは、5月案に否定的な意見が多かった。イギリスのエクゼターIOC委員は、「スカンジナビア半島の国々の場合を考えてみよう。彼等の国は1年の初めの部分(1月から3月の意)は雪に覆われている。だが私は彼等の国の選手が春までにベスト・コンディションに達するかどうかを疑わしいと思う」と述べた。イタリア・オリンピック委員会筋は、「イタリアはじめヨーロッパ諸国では、選手は春にトレーニングを始める。選手たちは大半が学生であって本格的なトレーニングは学期が大体終った頃に始めるのだ。その時期が5月に当るのである」と述べた。一方で、オーストラリア、アルゼンチン、フィリピン、インドなどの関係者は、5月案を支持した[6]。こうした議論を経て、最終的に会期は10月10~24日に決定した。
のちの2020年東京オリンピックでは、当初の会期は2020年7月24日(一部競技は22日)~8月9日だったが、1年延期で2021年7月23日(一部競技は21日)~8月8日となった。この開催都市選考では、IOCが立候補都市に対して、会期が7月15日~8月31日におさまるように要求していた。秋はヨーロッパならサッカー、アメリカはメジャーリーグが佳境を迎え、アメリカンフットボールのNFLと競合し、テレビの放映枠で人気プロスポーツとの争奪戦を避けるのが目的だった[7]。このことから、夏の暑さを避けるために、秋開催を選択した1964年オリンピックを評価する声がある。しかし、当時と後世では、事情が異なっている点もある。1964年オリンピックの会期検討についての文献では、次のような記述があった。
「高温高湿によって最も困難な競技はバスケット、体操、レスリング、ボクシング、重量挙げおよびフェンシングの屋内競技である。殊にフェンシングは、危険防止のためにベスト(フェンシングのユニフォーム)を着用し身体を外気から隔離するため、熱の放出(汗)は逆に身体に圧力となってくる。したがってオリンピックともなれば、上記の6種目の室内競技場はすべて完全な冷房をほどこさなければならない。3,000~15,000人を収容した室内競技場を、常に快適な20℃前後に調節することは容易でなく、例え出来たとしても莫大な費用が必要である。」
「第2の理由は夏季は環境衛生上、各種伝染病および中毒の最盛期であって、殊に欧米人は、日本に多い赤痢に対する免疫性が少なく罹病率が大」[8]
その後の日本では、建物の冷房が日常的なものとなり、室内競技場での暑さ問題は解消された。2020年オリンピックでは、暑さ対策は屋外競技に焦点が置かれるようになり、開催準備段階でマラソン・競歩会場が札幌市に変更されるなどの対策が実施された。また、その後の日本では、赤痢が減少している。
台風については、前述した伊勢湾台風など、1950~60年代ごろの日本では、死者が1千人を超える台風被害がたびたび発生していたが、その後は天気予報や治水対策の発達で、死者は減少傾向である。しかし、秋には台風リスクが存在している点は変わらない。令和元年東日本台風(2019年)では、10月12日に日本へ上陸し、関東地方などで記録的な大雨を降らせ、被害をもたらした。もし東京オリンピックが2019年に開催され、開幕日が1964年オリンピックと同じく10月10日だったならば、会期中に大型台風の直撃を受けていたことになる。1964年オリンピックの会期検討で、10月案について、台風が「万一開催地の東京地区に開会前に襲来した場合、大会全般の運営に大きな支障を来し、アジアにおける世紀の祭典も一夜にして崩れ去ることもあえて誇張ではない」[9]と指摘されていたことは、現代でもあてはまる。